リドルはその日になって、急に連れ出された。「どこへ行くの?」「リドルの家よ」「私の家は今出てきたばっかりよ」「いいからついてきて」
 ある白塗りの細長い家の前に連れてこられると、リドルはこの家はなにか嫌だと察知した。いやだ、いやだとぐずると、クロロが静かにあやすようにリドルの頭をなでた。が呼び鈴を鳴らすと、扉が空き中から老婦人が飛び出してきた。リドルは瞬くまにその老婦人の腕のなかに抱かれた。

「おお、神様!生きていたんだね、生きていたんだね・・・!」
「やだ!やだあ!離して!!」
「メアリー、よかった、よかった・・・!」
「あなた誰なの?私の名前はリドルよ!メアリーじゃないっ、ねえっ!クロロ!」

 婦人の体を押しのけ、後ろを振り向いてももう二人の姿は無かった。何度も、何度も、何度も何度も探した。婦人を払いのけ走り、路地に出る。しかし、二人の姿は何処にもなかった。
 やがてリドルは為されるがままに白塗りの家の中に通され、事情を老婦人から説明された。老婦人は自分の祖母だった。両親の本当の顛末を知った。自分の本来の名前を、身分を知った。しかし一番知りたかった二人の今の所在、ましてや二人が何者であるかすらわからなかった。
 こうして彼女は、パパとママを二回失った。




 何かを期待していたのかもしれない。彼女は自室の窓から毎日通りを眺めた。いつかあの二人が現れるのではないかと。花が咲き乱れ、風のふわふわした柔らかな日差しの春の日も、太陽が目を突き刺し、みんながガーデンでビールを煽る夏の日も、さびしい落ち葉で通りの敷石が見えなくなるくらいまでの茶色の景色がある秋の日も、通りの敷石どころか人通りさえ見えなくなる冬の日も、毎日毎日、暇さえあれば窓から通りを見下ろしとクロロを探した。ずっと探した。でも決して現れることがなかった。老婦人は、そのような彼女を様子を心配してか、少人数制の学校に通わせることにした。彼女は最初は初めて同年代の子供と接するものだから非常に戸惑ったが、やがてすぐに慣れ友人を作った。学ぶ楽しさも知り、遊ぶ楽しさを知った。友人同士の付き合い方や礼儀を知り、やがて好きな人も作った。クロロほど素敵な人ではなかったけれど。
 勉強に、スポーツに、恋愛に、人生に忙しくなった。そうしているうちに、窓から通りを見下ろすのをやめてしまった。その窓にはぴっちりとカーテンを閉め、窓際から離れて生活した。そうやってやがて、二度とカーテンを開け窓から景色を見渡すことすらしなくなった。

 16歳になると、それまで軽いものだと思っていた失恋の痛みが、とてつもなく痛く、重いものだと知った。勉学が進むにつれ、かつてクロロが教えてくれていたことが活きてくるのに気づくと同時に、高度なものだったのだと思い知った。ますます彼ら二人は何者なのだろう?彼女は、それについて想像を働かせることに夢中になった。
 18歳になると、それまでずっと世話をしてくれていた祖母が亡くなった。そのために、働きに出なければならなかった。賢く強くありなさい、今となってはそれがとても難しいことだったのだと思い知る。今では偽物のママということになってしまっているけれど、の言葉を胸にしまい働いた。強くあるためには時には言いたい言葉を飲み込むことだって、我慢することだって、涙で喉をどんなに熱くたって飲み込まきゃいけないことだってあるということを知った。
 20歳で結婚し、子供をもうけた。女の子だった。リドルと名付けようかとも思ったが、結局そうしなかった。相手は昔の知り合いの年上の男だった。夫はとても優しかった。
 夫は優しく子供は素直だったが、勿論苦労なんて数えきれないほど彼女の身に付きまとってきた。もし彼らがこんな時に私の傍にいてくれたら、そんな事はもう何千回も何万回も考えた。あの日まであんなに幸せだったのに、何故こうも変わり果ててしまったのだろう。毎日考えていた。あの幸せな日々に比べたら、今なんてと何回も呪った。枕元で泣いた。同時にその涙は懐かしさを孕んでいた。
 22歳、24歳と順調に子供が増えた。女の子が一人、男の子が一人。家族五人で貧しいけれど幸せな日々がそこにあった。夫はあまり稼がないが、優しく家事や仕事で疲れた彼女を癒してくれた。そのたびに彼女はありがとうと涙を流して喜んだ。子どもたちはその様子を見てにやついたり、喜んだり、一緒に泣いたりしていた。毎日みんなが笑っていて、幸せだった。
 子育てで忙しい時期もあったが、必死で子育てしていくうちに10年15年と月日は流れていくもので、そのうち長女が結婚し、家を出て行った。外国の男と結ばれたのだった。祝福すると同時に、家から一人、家族がいなくなってしまった。ぽっかりと穴があいたようだった。やがて数年経ち、次女は隣町の教師と結婚すると、一緒に彼女と夫に住もうと持ちかけた。二人は二つ返事でそれを承諾した。次女の夫は騒がしく、常に喋っていなければ落ち着かない性質の人間だったおかげで家が少々騒がしくなった。彼女はそういう家もいいと思って満足していた。夫も同意見であるようだった。
 しかしやがて次女も家を出て行った。子供が増え家が手狭になったからだ。戦争がおこるだろうから外国へ行くと言っていた。そして手紙を寄こしはするものの、やはり彼らは帰ってこなかった。そしてその国で大規模な流行病が発生したと新聞で知る頃になると、もはや手紙すらも彼女のもとへは届かなくなってしまった。最後まで残っていた長男も戦争に行ってしまい、二度と帰らなかった。



 50歳になった。
 長い時間を過ごしてきたけれど、あんなに騒がしかった五人家族も、今はもう二人になってしまったなあ、と思いふと鏡を見ると、すっかり老いてしまって自分が最初にこの家に連れてこられた時の祖母のようになってしまっていることに気づく。その時妙な胸騒ぎがして、もう一度最近滅多に使わなくなった階段を使い二階に上がった。ほこりをもうもうと被っているであろうあのカーテンの色を探して、昔自室だった部屋に向かった。これだ、とカーテンの紐をほこりには目もくれず解く。久し振りにこの窓を通した光は、とても眩しかった。すっかり錆びきった鍵を開け、窓を開け放った。春のうららかな日差しが彼女を包んだ。じんわりと伝わる熱に目をつぶり、気持ちと体をやすめる。久し振りに階段を上がったことや、今気持が高ぶっていることもあって、どんどんどんと心臓がろっ骨を叩いている。後この心臓も何回動くのか。ゆっくり目を開け、景色を見た。
 すっかり町の風景は変わってしまっていた。もうもうと煙突が何本も町から突き出していた。町の色合いはずず黒く変色し、晴れているにも関わらず、空ですら薄い灰色に染まっているかのように見えた。しかし下を見下ろすと、この彼女の生きた40年を通しても全く変わっていないものを見つけることができた。

とクロロが二人で寄り添って歩いている姿だった。そして驚くことに、40年経った今でもあのときの姿かたちのままをしていたのだった。二人はふと立ち止まって、ゆっくり彼女のいる窓のほうを見上げようとした。

 彼女はあっ、と息をのみ、慌てて階段を降りるべく来た道を引き返した。待って、待って、待って、待って、待って、そればかり彼女は心の中に思っていた。
 久し振りに思い返す名前だった。、クロロ、、クロロ、、クロロ、
 話したいことがたくさんあった。聞きたいことがたくさんあった。夢にまで見た二人がすぐそこにいる。夢でもいいから会いたかった二人がすぐそこに、玄関の扉を開けたところにいる。ようやく会える。今までどんなに辛い目にあったって、二人には会えなかった。どんなに二人に居てほしいと願うときですら、二人は一瞬たりとも彼女の前には現われてくれなかった。なぜなんだろう。何故、今なんだろう。何故、二人は何も変わってないんだろう。なぜ、今まで私に会いに来てくれなかったんだろう。会いたい、会いたい、会いたい、会いたい!


「待って!!!!」

 彼女は悲鳴をあげる体を引きずり死に物狂いで玄関にかけより、扉をあけはなした。

「待って!!!!」

 もう一度絶叫した。
 確かにとクロロだった。今ではすっかり朧げになってしまった一番古い記憶の中の彼らですら、この今目の前に立っている二人と同じだった。変わっていることといえば、の服装ぐらいだった。ははっとした様子でリドルを見ていた。クロロもまた口をわずかに空け、目をしっかりと見開いて彼女を見つめていた。

「私を、私を覚えてる!?リドルです!!ずっと私を育ててくれた!!パパとママ!!会いたかった!!」

が、大粒の涙をぼろぼろとこぼしながら、彼女に駆け寄り、抱きしめた。




 においもすがたもかたちも「リドル」と呼ぶその声さえも、40年前と何も変わりはしなかった。
「元気だった?」


元気です、元気です、会えてよかった。
しかし返事は嗚咽に飲まれて、何も言えなかった。