不幸な少女だった。いや少女と呼ぶにも幼すぎる。
 その馬車の中には一組の男と女が座っていた。女はまだ1歳ほどの乳児を腕に抱えていた。
 男は女にここにいろと目で指示すると、馬車に飛びつき、まず運転手を一瞬の手の振りだけで絶命させ、たずなを引いて馬を静止させる。馬車が止まると女は駆け寄り、男は馬車の扉を勢いよく開いた。
 誰だ、その言葉を聞く前に男がその夫婦の首元に目にも止まらぬ速さで手刀を繰り出すと、その夫婦の血しぶきで馬車の中が真っ赤になった。しゅうしゅうと血のはじけ飛ぶ音がすると、馬車のガラス、クリーム色の天井からビロードの美しい座席すべてが血に濡れて油っこくどろどろになった。その惨状の中で乳児はきょとんとした顔でどろどろと滴り落ちる母親の血に頭から濡らしながら、ドレスに母親の血を溜めて身じろぎにゆらゆらぴかぴかと揺らしながら、母親だった体に抱かれていた。乳児はこちらを呆けた顔で見上げたかと思うと、血で全身を真っ赤にしながらぎゃあぎゃあと泣き始めた。ばたばたと暴れると母親の血まみれの肉塊が少女に枝垂れかかれすぐに崩れ落ちた。その幼児は車の助手席の下と、母親の血と肉に挟まれ、余計ぎゃあぎゃあとくぐもった声で泣き叫んだ。この幼児はたった今父親や母親が見知らぬ男に殺されたために泣いているのではない、自分がたった今いつもとは違う状況に置かれているのがわかって泣いているだけなのだ、もう両親が殺されたことすらも知ることはこの子は出来ないのだ、女はそう考えて咄嗟にその幼児を肉塊を退かして血の海の車から救いあげた。女が抱えても彼女は一向に泣き止むことはない。

「殺すか?」
「いや、私が育てるわ」
「いきなり何を言い出す?そんな小さな子供、が一体どうやって育てるんだ」
「興味が沸いたの。それに、まだ小さいのに、こんなところで殺しちゃうなんてかわいそう。二人だけで居てもう随分と長いんだし、一人くらい普通の子供を育てるぐらいのことはしたっていいでしょう。罪滅ぼし」
「お前が世話をしろよ。俺は一切しないからな」
「はいはい」

 それではリドルと名付けましょう。きっとかわいくなる。
 運転手付きの馬車を持っていること、服飾品は血に濡れていても高価なものであると感じさせるものだし、この夫婦はさぞ富豪だったのだろう、と容易に想像がついた。しかし富豪の貴族の孤児など行く末は知れている。
 女はその場で盗ったトランクの中から皺ひとつついていないドレスを血がつかないように引きずり出し、その乳児に手早く着替えさせた。男は興味の無さそうな顔をしながら乳児を一瞥し、「本当に知らんからな」と言うと父親の背広の懐から目当てだった手帳、財布、懐中時計などを持ち出した。女はトランクごと持ち去った。

 リドルはくるくると自然にカールした黒髪を持つ、色白の女の子で、これといった事故の後遺症も無くすくすくと成長していった。
 女は自分をと呼ばせ、男をクロロと呼ばせた。そして日々の世話のみならず言葉を教えるなどの教養もまたの役目だった。最初こそ男はこれといって子育てに関与しなかったが、リドルが成長してくるにつれ少しずつ、本当に子供の成長と比べても少しずつだが、協力するようになった。
 女はリドルが素敵な女の子になるように、賢く強い女の子になるように、毎日慈しみながら育てた。リドルのする顔は毎日違うように見えた。リドルのいる日々は毎日違うように見えた。
 次第にリドルは言葉も達者になり、男の朗読してくれる詩を覚え、歴史を覚え、世界を知り、寝るときには女の読む物語に耳を傾けながら眠りについた。
 川は流れるもの。あるいは水の流れで私たちの体の汚れを洗い流すもの。花は咲くもの。あるいは冠にすればひとを喜ばすもの。鳥は鳴きながら空を飛ぶもの。あるいは青空に彩を加えてくれるもの。あの蒼穹にはいくら手を伸ばしても手は届かないこと。けれど見上げることはできるということ。本当の両親にはもう会えないけれど、代わりの者が精一杯リドルを愛しているということ。
 教養の無い貴婦人はいないわ、素敵な婦人になるためには賢くなきゃだめなの。女は教えた。
 でも強くもないといけないの。すぐリドルが折れてしまわないように。女は説いた。
 旅行にも行った。ロンドンだけでは世界は小さいままで、リドルの精神にはよくないからだ。
「まずパリを見に行こうよ」
「音楽に触れる必要もあるだろう。そのあとはウィーンにでも行こう」
 そのように二人がやっていくうちにだらだらと延びて、大旅行となった。
 世界を見て、自分の小ささを知ったら、あとはひたすら生きなさい。そう教えられたため、リドルは自分が大人になったらきっとそうするのだろうと考えた。賢く強くいなければならない。リドルはきっと大人になったらそういう人間になろうと考えた。

 リドルにはひとつ、何度聞いても聞かずにはいられない質問があった。
「パパとママはどこにいるの?」
「クロロと私がパパとママなのよ」
「でも前、が本当のママじゃないって言ってたよ。クロロも」
「本当のママじゃないけど、リドルのこと本当に愛してるのよ。・・じゃあ、私たちはリドルの心のパパとママということにしましょう」
「わかった。でも、体のパパとママはどこにいったの?」
「お星さまになったのよ、リドルがだいぶちっちゃい時にね」
「じゃあ、何でうちはよく引っ越すの?」
「それは、リドルにいろんな世界を見てほしいからよ」

 男はその質問に毎度毎度同じ答えを返すを横目に見ても、何も言わなかった。
 問題無かった。リドルは本当に男と女をパパとママだと思っていた。外で見るパパとママのように、とクロロは寄り添うように歩くし、リドルがだいぶ大きくなると、デートに出かけるからとリドルを家に置いてきぼりにしたりした。二人がこっそりリドルに隠れてキスをしたりしているのもリドルは知っている。だからこの二人は自分のパパとママなのだ。むしろこの二人の仲は、他の所のパパとママより仲がいいと思っていた。なんら不自然なところなど無い。不自然なことがあるとすれば、よく家が引っ越しになることと、パパとママが全く年をとらないかのように見えることぐらいだった。それでも問題無かった。リドルは二人の言葉を、どんな端っこの言葉ですらもすっかり信じ切っていた。
 木の上でとリドルが歌を歌いながらスコーンを頬張ったり秘密基地を作ったりして遊んでいると、夕方頃には何時も決まってクロロが迎えにきてくれること。当たり前だった。お茶を入れる温度が熱いといってクロロとが喧嘩しても、いやどんなに喧嘩したって、リドルが泣いて「はやく仲直りして!」と言えば、結局二人はキスをして仲直りすること。当たり前だった。冒険気分で、木で水車を作ってもらいにクロロに恐る恐る機嫌を伺いに行くこと。当たり前だった。雨が降れば、裸足になってと一緒に濡れた芝生の上で踊って遊んで、服を汚して笑いあうこと、クロロがそれを見て少し楽しそうにしていること。当たり前だった。がリドルのドレスを縫ってくれること。当たり前だった。ついでにとリドルでクロロの背広を縫ってあげること。当たり前だった。



 そんな幸せな日々も、10歳になって少し経った時に、終わった。