女の薬の匂いは、日に日に薄らいでいった。 それに比例して、女の顔色もまた日に日に良くなっていった。今や、女は最初に出会った頃のような、どうして動いているのか判らないくらい血の気のすっかり失せた顔では無く、頬にほんのり紅の色すら見える程にまで”回復”していた。 女は、屋敷から出て行こうとはしなかった。「他に行く所が無いの。あっても、どうやって行けばいいのか判らない」と言った。俺は俺の寝室に女を住まわせる事にした。元々はこの屋敷に住んでいたのはアントーニョが何処かから連れて来た奴隷達と、アントーニョ、俺の二人だけだったが、女はそのどちらでも無かった為に、屋敷で浮いていた。勿論、一見無学そうに見えるが、俺の存在を容認し自分もそうだと告白した事から、普通の”人間”では無い事ぐらいは明らかだった。しかし、女は奴隷の持ってくる綺麗な紺に染められた女の服や、赤や黄色の綺麗にちりばめられた食事に首を振り、食事に至ってはそのまま「あなたたちで食べて」と奴隷につっかえす有様であった。そして、その一方でそれらをやすやすとそれらを奴隷の手から受け取ろうとする俺の顔を、女はまた悲しそうに見るのだった。 「これ、欲しいのか?」 俺は手に持ったモモのような果物を、テーブルに置かれたフルーツの山から取り出して言った。 「いらない。それ、果物?見た事ない・・・おいしい?」 「はあ?何ってこれ、プラムだぞ。知らないのかよ?うめえに決まってるだろ!」 「うん、今日初めて見た」 「だって、おまえ・・・こんなんも、見た事ねーの?」 俺はあまりの衝撃にぽろりとその果物を手から落としてしまいそうになった。女は居心地悪そうに笑う。 「私の居たところに、その木はなかったから」 かわいそうに、こんなものも見た事が無いらしい。普通に国として生きて、他の国の人間たちと触れ合うような事があれば誰しもが目にするこのありきたりな果物を、この女は知らないらしい。女は英語でイギリスに居る友達に手紙を書けるくせに、俺よりも狭い世界を持っているようだった。この果物も知らないなんて、俺も十分可哀想だと自分では思って来たが、この女は更に上を行くような気がした。 指を果肉につっこむと、甘い甘い果汁が飛び散り、したたる。乱暴に柔らかい皮を向けば、黄色くて甘酸っぱい果肉が顔をのぞかせる。齧るときゅん、と舌が音を立てる程に酸っぱい。どうやら熟す前に持って来たらしい。道理でやけに固いと思った。 「じゃあよ、これ、此処の庭で取れたやつだからよ、俺が案内してやるぜ」 指や手を果汁でべたべたにしながら、同情心でいっぱいの声色で俺は提案した。新しい大陸で見つけて来た、アントーニョの素晴らしい発見物を女に見せてやろうと思った。 女と出会って一か月。 しかし俺は、まだアントーニョの事は言えていなかった。 言ったらどうなるのだろうと、恐ろしかったから。 「これ、おいしいね」 庭園の中の果樹園へと連れていくと、むしゃむしゃと、その時ばかりはは果物を美味そうに齧った。此処には色とりどりの花がある。黄色、赤、全部アントーニョが持ってきた素晴らしい花たち。あいつが海を越え冒険して、異世界から持ち帰ってきた。その冒険物語をアントーニョが大げさに語らうのを聞いてやるのが、実のところ俺は好きだった。しかし、「お前が今食ってるのも、そこで咲いてるお前が今褒めた花も、この庭園を作ったのも、全部アントーニョなんだぞ」とは、どうしても言えなかった。の中でのアントーニョは、可哀想な俺のたった一人の友達で、人間で、そして召使だ。一か月が経った今でも。 。。こんな果物の名前も知らない可哀想な女。この女は何処から来たのだろう?何度か尋ねても、 「遠い所だよ。海に囲まれてるの」 「海って、どこのだよ?今度家に遊びに行かせろよ」 「うん、そうだね。・・・また、今度ね」 はぐらかされるだけで、その時ののぎこちない笑いが俺の焦燥感を煽りたてて言った。 は変な女だ。 昼寝の時、俺はしばしばの寝顔を見る事になる。昼寝の時、どうしてだか夜以上にの眠りは深く、俺が目ざめるよりしばしば遅くまで眠りこけているからだ。その時見るの顔は、俺のそれと全然違う。まず、目は俺のとは違って黒い睫毛にふちどられている。その中の瞳は、これまた俺やアントーニョのものとは違って真黒だ。肌も色がついていて、よく日に焼けていて、少しアントーニョに似ている。俺は決してそれを口にはしなかったが。それに引き換え俺の肌は白い。頬はこけてて、これは奴隷に食べ物を与えるせいだ。俺がいくらやめろと、意味が無いと止めても彼女は自分の飯を奴隷に分け与えてしまうのだった。お陰で奴隷はアントーニョが居なくなる前より随分血色が良い。実は俺はそのことに強い違和感を感じていた。アントーニョが居なくなってこの女がこの部屋で過ごすようになってから、この屋敷の雰囲気がおかしくなってきていた。 ある昼下がりの事だった。 いつものようには奴隷の持ってくるパンや熟れた果物、干し肉に首を振った。 「ありがたいです。でも、それは様が食べなさってください・・・」 「私はいいのよ。あなたたちが食べて。あなたが食べないのなら、あなたの子供にあげて」 がパンを差し出すと奴隷が涙まで流してあまりにも喜ぶものだから、俺はその横でもぐもぐと飯を一人頬張る事に異常な居心地の悪さを感じずにはいられない。と奴隷のやりとりを聞きながら口いっぱいにものを頬張るのはさすがに気が引けた。一気に何だか食べているものの味が色あせてしまったように思えて、ついに俺は、その時持っていた干し肉にオレンジが挟まったパンを奴隷に手渡してしまった。 「・・・これも持ってけよ」 「ロヴィーノ様まで!そんな、そんな・・・」 には大分リラックスした様子で話すくせに、俺に対してはいつも俺の機嫌を窺うような話し方しか出来なかった奴隷たちは、声にならない悲鳴のようなものを上げた。何だか悪い事をした気がして、横からじいとながめるの目線も相まって俺はついに怒鳴った。 「いいから!早く」 「ありがとうございます」 たたきつけるようにして食い物の乗った皿も奴らにつっかえすと、あいつらは嬉しそうにドアから出て行った。あいつらはあれをどうするのだろう。独り占めして食べてしまうのだろうか。それとも皆に分け与えるのだろうか。俺なら、独り占めして食べてしまう。 「そんな事しても、無駄だぞ。えこひいきされてるって、そのうちきっとあいついじめられんだぞ」 俺が注意しても、は素知らぬ顔で言い放った。 「そうね・・・一人だけ与えられてしまったら、そうなるね。ねえ、この屋敷の奴隷の食事はどうなってるの」 それはアントーニョが決めることだ。俺には知らされないし、知る必要もない。 「・・・知らねえ」 「前も聞いたけど、この屋敷の主はイスパニアなんでしょ?主は何処へ行ったの」 はアントーニョがこの屋敷の主人だなんて微塵も思っていないようだった。それでよかった。その事実を知ってしまったら、は何処かへ行ってしまう気がした。いや、気がしたどころではなく、これは確信だ。どこから来たともわからない、ただただ確固たる確信だ。 「知らねえ」 本当のことだった。ただ、深く聞かれるとまずい。 「なんで、」 「でも、」 しかし俺は、その後に続く当たり障りのない話題を全くもって考えていなかった。そしてその一瞬の間に頭をフル回転させ話題転換を図った挙句が、これだった。 「俺が、言えば、いい・・・かもしれねえ」 「何を?」 「だから、俺が、此処の奴隷が、もっと食えるように・・・その、女中頭とかに言えば・・・多分制度とかは変えられると・・・思う」 何言ってんだ俺。今までで一番俺らしくない言葉を吐いている自信がある。本当、何言ってるんだ俺。しかし口は俺の心の叫びとは逆にすらすらと「今夜女中頭と話をつける」とまで言い切った。わが身の事ながら信じられない。 「ロヴィーノ、本当に!?本気で言ってくれてるの!?」 の顔がぱっと笑顔になった。しかしその眼はまだ信じられないとでも言いたげで、俺も自分で何でこんな事を言ってるのか全然判りませんと彼女に言いたかったが我慢した。があまりにも驚きと嬉しさを綯い交ぜにしたような顔をしたので。他人がこんな顔をしたのを見るのはおそらく初めてだった。しかも、他人が俺自身の言葉でこんなに喜ぶところなんて、初めてだった。勿論、は奴隷の環境が改善する事に喜んでいるのだ。奴隷の事を想っては喜んでいる。俺の事を想ってじゃない。奴隷が居なければ、はこんな顔をする事が無かった。おもしろくない。本当に何でこんな事を言ったんだ、と俺はほんの少し前の俺の言動を後悔した。あんな事したって俺になんの見返りもない。アントーニョ嫌いの奴隷たちが喜ぶだけ。アントーニョが居なくなって喜んでいるような奴隷たちの腹がふくれるだけ。それを見てが喜ぶだけ。が喜ぶのは、おそらく・・・。そこまで考えて俺はいじけた。俺には何のリターンも無い。つまらない。あんな事、言わなければよかった。 「満足かよ」 吐き捨てるように言うと、は目尻に涙すら浮かべて微笑んだ。 「優しい、素敵な子なのね、ロヴィーノは。大好きだよ、ロヴィーノ」 違う。お前が大好きなのはあのかわいそうな奴隷たちなんだろう?俺の小さく卑しい心はますますいじけて小さくなった。 結局、奴隷たちの食いものに、屋敷内で採れるこの素晴らしい果物を加える事にした。奴隷たちは文字通り泣いて喜んで、俺の脚にキスしようとすらした。気持ち悪くて、俺はの背中の向こうへと隠れてしまった。何が気持ち悪いって、こうして奴隷たちに感謝されている状況が恐ろしいのである。未だかつて経験した事のない出来事だ。恐ろしい。俺にとって未知とは恐怖なのだ。そんな俺をは笑って、しかし力だけは容赦せずに、俺を正面へと引っ張り出した。肌の焼けた奴隷たちは、真黒の歯をして笑うのだ。「ありがとうございます、殿下」と。 そのあとはもう、緊張と恐怖と恥ずかしさで何も覚えていない。 *** ある日、は俺の持つ十字架のネックレスを見て 「ロヴィーノはイエスを信じるの?」 と尋ねて来た。 「何って・・・当たり前だろ」 「当たり前なの?」 「何だよお前、信じてないのかよ?国のくせに。お前、十字架は?持ってねえのかよ」 その頃の俺たちにとって、いや、少なくとも俺周辺の”そういうやつ”は、決まって十字架を身につけていた。勿論信じてるからに他ならないが。俺の人生も長いとは言えなかったが、この辺りでこれを信じずに有難がらない国を俺は知らなかった。勿論俺の国も根っからこの宗教の虜になってはいたが、俺自身はじゃらじゃらと邪魔くさい鎖などとってしまいたかった。しかしアントーニョに付けろと再三注意された為に、この銀の錆びやすいアクセサリーを身につけているのであった。 そのために、が何故十字架を持っていないのかが不思議で仕方がなかった。 「・・・持ってない」 その時生まれた妙な間は、今でも忘れられない。 「変な奴。何でだ?ネックレスも持ってねーのかよ!ロザリオは?」 「無いよ、その・・・何処かで失くしたから」 しかし俺は知っている。が十字架を失くしてなんかいない事を。人差し指ほどの大きさの、その質素な服とはまるで釣り合わない程の真っ赤なルビーの入った、豪華なロザリオを隠し持っている事を。この屋敷にはごまんと豪華な品が置いてある。金ぴかの花瓶、シャンデリア、本物の金のネックレスをした女の裸の彫刻、何処かの国の王様が被っていた50も宝石の入った王冠・・・それらの中から一つ無くなったって、誰も気付きやしない。だから俺も、がいつのまにかひっそりと寝ている間に握っているそのロザリオに気付かなかった。俺もまたそれに無暗に触れたりはしなかった。何か理由があるのだろう。はこの屋敷においてある、海の向こうから来た金ぴかの花瓶や、燭台、フォーク、ナイフ、皿、美しいシャンデリアをたまに複雑な表情で見つめたり、それらの装飾品を指差し「これは何処から来たの?」と奴隷に尋ねたり、その答えを聞いて息を飲んだりしてみせたし、俺はその横顔を見ると何も言えなくなってしまった。その頃になるとさすがに、の正体というものが何となく見えてきていた。 「じゃ、お前は何信じてんだよ。の国じゃ神様は誰なんだ?イエス様を信じないなんて、そんな事俺の国ではありえなかったぞ」 「私の国では、海が神様なんだよ」 「海?」 「そう。海は色々なものをもたらしてくれるから。全部。それに、海は色々なものを奪っていってしまうから。全部。雨も風も、魚も植物も牛も鳥も、ヒトも全部」 「・・・」 「海は大事なの。島国だからね」 ぽつりと寂しそうには言った。 「陸続きだったら、少しは違っていたのかなあ・・・」 「なんでだ?」 「海を越えてやってくる人たちは、皆敵だったから」 俺は何も言うことが出来なかった。 夜、眠る時、俺はと同じベッドに横になる。仮にも俺と同じ身体を持つをあいつらと同じ所に住まわせるわけにはいかなかったからである。かつて俺とアントーニョが寝ていた大きなキングサイズのベッドで、俺はと横になる。毎日取り替られる新しいシーツに、温かく柔らかいベッド、真っ白い雲のようなふわふわした羽毛の目一杯つまった枕に頭を預け、二人で夜の星の海に潜る。 「くっついて寝ようか?一人で寝れる?おちびちゃん」 そう言って最初からかってくる上に、俺は当初同じベッドで寝るというとてつもなく恥ずかしい思いを感じていた為に、俺はベッドの出来るだけ端で寝ようとして結局床に落っこちたのも良い思い出だ。今はが勧めた通り、小さな俺は大きなに抱かれながら眠る。は俺が眠るまで決して眠らなかった。俺が無理にでも起きようとすると、決まって背中をゆっくりととんとんと寝かしつけるように叩いて、俺を寝かしつけようとするのだ。 「おやすみ」 の歌う子守唄は知らないメロディーと音だった。という名前に宿る異国の匂い。俺の知らない匂い。プラムの無い国の匂い。の国にも、俺の国と同じように街があり、人があり、教会があるのだろうか?石畳の通りに、美しい彫刻が一面に彫られた建物。歌の聞こえる裏路地。・・・その時俺は、胸でじんわりと熱を持って身体と同化している十字架のペンダントの存在を感じながら、眠りに落ちるのだ。異国の子守唄を聞きながら、なつかしい風景が瞼の裏に現れると、俺はどうしても涙を密かに流してしまう。遠くの俺の故郷は、今どうなっているのか。あの時フェリシアーノをかけっこした広場はまだ平和なままだろうか。あの絵を習っていた工房は?あそこには怖い親方がいたっけ、あいつはもう死んでしまっただろうか。生き別れの双子の弟は?今どうなっている?また会えるだろうか…会いたい。いつか一緒にあいつと暮らせたら。そういえば、弟と一緒に工房を出ると、よく大道芸人が歌を歌っているのを見た。今もまだ美しい歌があふれているだろうか。あいつらのリュートの音は響いているだろうか?サンタルチアの海へ行きたい。ローマの大聖堂。コロッセオで夕日を見たい。夜のミラノに響く鐘の音。俺が居ないこの間も、あの日の街は、まだ変わらないでいてくれるだろうか…目頭が熱くなるその度に、俺は傍にあるシーツに目を押し付けたり、から顔を背けたりして誤魔化すのだった。 「泣いているの?ロヴィーノ」 背中の後ろでの小さな声がする。俺は返事をしなかった。 |