・。知らない音の並び。それは女の顔つきと同じく異国の匂いがした。俺が慣れないその音をゆっくりと発音すると、女は笑った。 「それじゃあ、アントーニョの小さなお友達、一緒に手紙を書こう」 俺は何故だか完全にその言葉を信じ切ってしまっていた。 「そのアーサーってやつは、たくさんの船を持ってるのか?」 「そうだよ、きっと私の知ってる中で一番の大金持ちで、船をたくさん持ってるよ。ロヴィーノ」 なんでそんな歌う風に喋れるのだろう。 女はその言葉通り、俺を連れて屋敷の中に戻った。その道中、使用人は慌てたようにわっと道を空け、俺たちを複雑な表情で見つめた。何だこいつら、と俺にはその顔が読みかね、あやうく声に出しかけたが、しかしはそんな事を気にもかけず、足取りも軽く俺の手を引っ張り、真っすぐ先を歩いた。は俺よりうんと大きく、俺はそいつの顔を見るのに思い切り顔を上げねばならず、また一歩一歩が大きい為に思い切り早足で歩かねばならなかった。しかし此処でゆっくり歩け、なんて言ったら子供だと言ってなめられそうで言わなかった。は使用人と同じく、俺のそんな葛藤すらも全く気にせずに口を開いた。 「何処かに紙とペンはない?」 勿論、俺はそれらがアントーニョの部屋にあることを知っていた。が、俺は一瞬警戒した。このまままっすぐ行けばアントーニョの部屋だが、そこに連れていくのは何故だかとても危ない気がしたのだ。 「ある。・・・けど、お前はこっち」 俺はの手を引っ張り、俺の寝ている寝室に連れ込み、ドアを閉めた。 「何?此処なの?」 大きなキングサイズの天蓋つきベッドと、小さな机と椅子、そして水差ししか無い部屋を見て女は首を傾げた。今日は俺はオネショしなかったはずだ。大丈夫。 「お前はそこで座って待ってろ。持ってきてやる」 「そう?別の何処かにあるの?」 「そうだよ。大人しく待ってろよこの野郎」 俺はそう言うと部屋を出て、扉を閉めた。そのままてちてちと、いつものようになめるように磨き上げられた大理石を裸足で歩きアントーニョの部屋へと向かう。道すがら、使用人は珍しく一人も見なかった。皆玄関に集まったまま、動いていないのかもしれない。俺はアントーニョの部屋につくと扉を開けた。鍵も掛けずにあいつは出て行ったから、俺は自由にその大事な部屋に入る事が出来るのだ。大きな机と椅子、天蓋付きダブルベッド、何もかもあいつの居た通りだが、大きな机の上に飾られていた花瓶にかつて活けられていた大輪の花々は姿を消していた。持ち主の居ない部屋に花を生ける意味が無いと言う事だろうか。アントーニョが帰って来ない事をいい事に、新しい花を用意しない使用人たちに俺は実は腹を立てていた。使用人たちはあいつが西の大陸から連れて来た奴隷達だ。あいつの身に外で何かあったと知って、内心は大喜びしているに違いない。あさましい奴らだ。あいつの育てた野菜や、肉や、パンを食べさせてもらい、あいつに仕事をもらい、金をもらっているくせに。無性にイライラした俺は舌打ちをして、机の引き出しから紙と、インクとペンを取り出した。 あいつがいないと皆生きていけないのに、皆あいつが太陽だという事すら気付かない。俺には女が書いてくれるという手紙しかない。他の誰もが俺とアントーニョを助けてくれないから。 女は俺の言葉通り、ベッドにちょこんと座って待っていた。 紙とペンを渡すと、女はありがとうと笑ってそれを持って机に向かった。そして椅子を引きそれに腰かけ、紙を抑えペンをインクつぼに浸した。そして間もなく、かりかりというペンが紙を引っ掻く音が聞こえるようになった。 「何て書くんだ?」 「まず、挨拶。アーサーは手紙の礼儀には厳しい人だから」 かりかり、女は流れるような動作で筆記体をペン先から紡いでいく。しかし俺からは女が何を書いているのか見えなかった。俺の背よりも高い机の上で繰り広げられる動きの全てを見届けるには、女も机もペンも全てが俺から遠かった。 「なあ、今何て書いてるんだ?」 「あなたの友達の名前」 俺ははっとした。スペルが間違っていたら大変だ。俺は「綴り間違えたら知らねーぞ、俺も見る!」と女に要求した。 「どうやって?」 俺は女の足にしがみつくと、膝に手を掛けた。そしてそのままよじ登ろうと小さく飛び上がったが、その動作に女は驚いたらしく声を上げた。 「膝の上に乗るの?」 「何だよ、たりめーだろ!じゃないと俺が見えねーだろーが、こん畜生」 俺は十分に憤慨しているつもりなのだが、残念ながらそれは伝わらなかったらしい。女は微笑んだ。 「はいはい、判った。おいで」 と言うと、女は俺を軽々と抱き上げ、膝に座らせた。どいつもこいつも、人を勝手に持ち上げるのが好きだ。女の白いワンピースの上に、俺は座らされた。女の太ももは想像以上に柔らかく暖かく、居づらいものだった。女に触れている尻の下の部分がむずむずする。久しぶりに女の膝に座った気がしたが、それでは前座ったのは何時だったっけ、と遠い昔を思い出そうとして止めた。 同時に胸の辺りをざりざりと何かに引っかかれているような心地がした。俺はそれにも目を瞑った。心臓がどくどくと鳴るのを耳元で感じながら。血管が広がり身体全体がどうしてか暖かい。 女は目の前でさらさらと筆記体を書きつけていった。俺はそのペンの残す黒い軌跡を目で追っていく。 「あなたの友達のお名前を教えてちょうだい」 「アントーニョ。antonio」 女のペンが動いた。A,n,t,o,n,i,o。俺が探している、世話焼きで、ちょっと頼りないけれど、優しい友達。 「ふうん。船乗り?」 「俺の召使だ!」 「召使?」 ぴたり、と女のペンが止まった。 「そうだ!いつも俺の飯を用意する役目の召使だ!」 「そう・・・そう言うロヴィーノも召使の格好をしているけれど。一緒にこの屋敷に住んでたの?」 「そうだよ、召使は住みこみだ、知ってるだろ?」 「他にもたくさんの召使がいたけど、彼等も?」 「たりめーだろ、じゃないとあいつらの住むトコが無いだろうがちきしょうめ」 「こら。そんな言葉使ったらだめでしょ。ロヴィーノに悪い言葉を教えたのは誰?」 「誰でもねーよ馬鹿」 「二回目。女の人には絶対そんな言葉使ったらだめって教わらなかった?」 「へん、知らねー」 「私の、いや、女の子の前では使っちゃだめだよー」 「いやだー」 「大人の言う事は聞くものですー」 「い、や、だ」 「ロヴィーノ!」 頭を軽くはたかれたが、俺はくじけなかった。小さく何時こんなに仲良くなったのだっけ、と思っただけだった。俺は女の膝から降りず、女の持っていた羊皮紙に手を伸ばす。 「まだ渇いてないから気を付けて」 「この手紙・・・」 目で追いかける文面は、所々難しい単語を使っていて正直中身ははっきりと理解する事が出来なかった。しかし俺の名前と、俺の友達のアントーニョの名前と、そのアントーニョを助けてやってくれという内容、そして女の名前が書いてある事に俺はおおいに満足した。 親愛なるアーサー・カークランド 迷惑をおかけしています。ようやく外へ出られました。ここでは太陽の光を浴びる事が出来、他の人間と喋る事ができます。綺麗な空気を吸い、思った事を喋っても良いのです。本当は今こうしてあなたに手紙を書いているこの瞬間ですらも、喜びのあまり涙をこぼしてしまいそうです。全てあなたのおかげです。 迷惑ついでに、もうひとつ、あなたに頼みごとがあるのです。あなたの巨大な力をもってすれば、ほんの小さな頼みごとです。小さな男の子、この屋敷に住んでいるロヴィーノという小さな国の、アントーニョという召使い、いや友達を探してやって欲しいのです。丁度一か月前、アントーニョという名前の人間が、船に乗ってカリブ海に向かったきり、戻って来ないのです。 どうやら何か外国でトラブルがあったらしいですが、アントーニョから何の便りも無く、屋敷の皆が身を案じています。あなたも知っているように、アントーニョは、私が今いる、スペイン王国のこの屋敷で働く召使です。私がこの屋敷に来て初めて口を利いた小さな友人であるロヴィーノが、そのアントーニョという者の帰りを待ちわびています。 私は彼に会った事はありませんが、この小さな勇気あるロヴィーノの為に力を貸してくれないでしょうか。勿論、あなたを満足させてあげられるような礼を、私は喜んで用意したいと思います。優しいあなたなら、このような言葉も必要ではないかもしれませんが。敬具。・。 ところどころ読めない上に全体的にあまり理解は出来なかったが、とにかく出来るだけ丁寧に相手側に頼みごとをしている事だけは判った。俺は羊皮紙から顔をあげ、女の顔を睨みつけた。 「なんだこれ!俺を完全ガキ扱いしてるじゃねーかこの野郎!」 「だって本当のことじゃん、ごめんね。でも、アーサーは小さな子供が訴えかけている事には、よく耳を貸すから」 「そのアーサーって奴は一体何なんだよ?人間か?」 「何だと思う?」 女はいたずらっぽく笑った。 「んー、・・・俺と同じ、くにか?」 「・・・あたり!賢いね、ロヴィーノ」 「たりめーだろちくしょう!毎日こんなとこでこき使われてるけどなぁ、俺だってやるときゃやるんだぞ!」 「ロヴィーノのおうちは何処にあるの?」 女は優しく俺のお腹をなでながら、あやすように前後にゆらした。 「もっと遠くだ。此処から東だ。ずっと東だ」 「そう・・・遠い所から来たのね」 そう言う女の方が遠い所から来たという事ぐらい、俺には想像出来た。そして女は一言、「かわいそうに」と呟いた。 「そうだ、俺はかわいそうなんだぞこの野郎ー!もっと敬え!」 「はは、何言ってるのおちびちゃん」 「チビって言うなー!」 あばれても所詮大人と子供だった。暴れようとしても抑えつけられ、腹や横腹あたりを擽られる。くすぐったくて更に暴れるのだが、女は更に面白がって状況を悪化させた。喉から意味の無い非難の声と笑い声が混ざり合って出て来た。やめろと何度言ってみても、全然伝わらない。女は別に擽られてもいないくせに、おかしそうに笑いながら、俺を見下ろしていた。それを見た瞬間、もやもやとピンクの雲のようなものが俺の胸に現れた。何者か正体は判らないが、何となく居心地のよいもの。 「やめっ、・・・ひひゃ、ははっ、このやろ!」 「ふふ、ロヴィーノ可愛い」 暴れた瞬間、不幸にも女の手が俺の額から飛び出るチャームポイントを掠めてしまった。 「ち、ちぎー!」 「あ、怒った。はいはい、ごめんね」 女はあっさりと俺を解放すると、手紙に再び取りかかった。俺は女の膝から降りた。しばらく筆を走らせた後、女は羊皮紙が折れてない事を確認すると、封筒を持ってくるよう俺に頼んだ。俺はお前の召使じゃないんだぞ、と言いつつも女が封筒の場所を知らないのは当たり前なので、すんなりとアントーニョの部屋に戻る。でかい机の引き出しにしがみ付き、中から一番に目に飛び込んできた封筒と、ついでに封蝋をとりだした。封筒とくれば、それに封をする封蝋も当然必要になるだろう。となれば、もう一つ必要なものがある。封蝋に判を押すためのエンブレムだ。大抵エンブレムは指輪と一体となっているはずだ。アントーニョが手紙を書いているのを見ていたから判る。国と国の間で文書をやり取りする場合は、どんなにくだらなくナンセンスな内容であっても、人間たちが公文書をやり取りする時みたいに、その手紙を自分の国のエンブレムで封蝋を押して封して送るのが俺達のしきたりというか、習慣というか、早い話が単なるくだらない流行りだった。そのエンブレムの指輪を持っている事が俺たちが国である事の証であったし、それを無くすという事は俺たちにとって非常に重要な意味を持っていた。"かみさま"から俺たちがもらった、大切なおくりもの。俺たちが死ぬまで絶対に手放してはならないもの、それがエンブレムの指輪だった。 この家のエンブレムは当然アントーニョが持っており、他にも予備のエンブレムはおそらくあるだろうが俺はそれらが何処にあるのか知らなかった。俺のエンブレムもあいつが管理していた。とは言え今は他の使用人に口を利く気にはなれず、人に探してもらう事もしたくなかった。だが話を聞く限り、女も国か何かだろう。ならばエンブレムもきっと持っているに違いない。俺はエンブレムのついたあの、アントーニョの手によく馴染んだ見慣れた指輪を探すのを止め、道を引き返した。 「おら。持ってきてやったぞ」 「あら、ありがとう。何処にあるの?言ってくれれば取りに行くのに」 「別にいいんだよ。ほら、これふーろーって言うんだろ?俺使った事ねえけど」 「そうだよ。よく知ってるじゃん。使った事無いの?」 「別に手紙書く相手もいねえし」 「そう・・・たまに、こうやって手紙が来たよ。私のところにも」 女は手紙を丁寧に折ると、便せんの中にはさみこんだ。 「今手紙を書いてるアーサーという人からも、よく来た。アーサーは花が好きでね、たまに小さな押し花を添えてくれたりするんだよ。届けてくれる人がいるという事って、本当に幸せな事なんだよ」 「アーサーって奴は、一体どこの国の奴なんだ?」 静かな部屋にそれが響くと、何故か俺はとても居心地の悪い心地がした。女は頷く。 「イギリスだよ。アーサーは、イギリス。会った事ある?」 「無い。でも、知ってる…聞いたこと、ある。怖い国だって聞いたことあるぞ…そうか、イギリスか…そんな怖い国を俺は、頼りたくない」 知らない人間も知らない土地も知らない国も知らない言葉も本当は全部恐ろしい。踏み出したくない。触れ合いたくない。ずっとこのまま、自分の知ってるものに囲まれて暮らしていたい。楽して暮らしていたい。 「とんでもない!あそこは怖い国なんかじゃないよ。アーサーはとっても優しいよ。私がこうして此処に居られるのは、アーサーのお陰なんだよ」 女が笑うと、心臓がいやに音を立てる。知らない感触だ。不快だった。 「そうなのか?」 「そうだよ。いつか会わせてあげる。アントーニョってヒトもね、きっと彼が親身になって探してくれるから」 「その、」 「私、エンブレムを持ってないから、この封蝋を留められないんだけど・・・ロヴィーノは持ってる?」 そのお前の言う、アントーニョって奴も国なんだけど。 そう言おうとした俺の言葉は飲み込まれた。気づいてしまったからだ。 「お、俺?俺は持ってない」 「そうなの?何で?」 「とりあげられたんだ。此処に来た時に、」 アントーニョに。 そうだ、俺は此処に連れてこられた時、俺の国の紋章が入った大切な指輪はアントーニョにとられてしまった。「もう要らんよな」そう言って笑った彼はあの指輪をどうしたのだろう。考えた事もなかった。そうやって俺の国を俺から取り上げた奴は、それから俺によくしてくれたけれど、エンブレムは絶対に返してくれなかった。どうしてだろう。考えた事もなかった。 「ロヴィーノ、」 女は椅子から立ち上がると膝を折り、丁度数時間前のように俺の身体をその柔らかい丸っこい身体で包んだ。俺は突然の事に手足すらも動かせず、突っ立って女を受け入れるしかなかった。黒い髪がふわりと舞って、よく日焼けした肌が俺を包む。部屋にこもってばかりで白くなった俺の手とはずいぶん違う違う国の色。恐ろしかった。知らない色と、知らないにおいがしたから。先程も感じた、このつんとする独特のにおい。今なら判る。俺はもう、気づいてしまった。この女に会ってから、ずっと薬の匂いがする。 「痛い事されてない?」 「されてない・・・」 否定の言葉を確かに伝えたはずなのに、女はいっこうに信じていないようすで俺の頭を何度も優しい手つきで撫でた。よしよしと、小さな子をなだめるみたいに、真綿のような柔らかさで俺の頭をいやに優しく撫でた。ぞわぞわと鳥肌が立つ。これは、違う。こんなはずでは無い。 「私も、指輪を奪われて、エンブレムが無いの。ねえロヴィーノ、私たちは一緒なんだよ」 「一緒・・・?」 「かわいそうに。かわいそうなロヴィーノ。辛かったよね?苦しかったよね?」 女はいつのまにか泣きそうな声をあげて俺に縋りついていた。俺の身体に女の身体がいっそうきつく当たったその時、ようやく俺は知る事が出来た。女の見につけている白い寝巻のような服の下には包帯のような布が何重にも巻かれていて、そこから薬の匂いが強くする事。女の国を象徴するエンブレムは最早失われてしまった事。そしてそれは俺と同じように失われてしまった事。俺が知ってはいけない事がこの女とイスパニア、いや、アントーニョの間に存在する事。そして、女の薬の匂いの影にかくれて、死の匂いがする事。 |