誰かのすすり泣く声が聞こえる。
 とても寝苦しい夜だった。


 俺はその時、何かとても怖い夢を見たような気がして、はっと目を見開いた。まず感じたのは首の周りにべっとりと張り付く髪やシーツの感触、そして自らの汗の臭いだ。目を見開いて一番に飛び込んできたのは見慣れた白い天井だ。部屋の中央に置かれたベッドに寝転んで真上を見ると、丁度山のてっぺんを見るみたいに、そこに向かって壁が高くなっているのだ。そしてそこから豪華な飾りが垂れている。これは西の大陸で手に入れた、世にも貴重な宝石なのだとあいつは言っていた気がする。青や白、赤の石が、今は窓から差し込む朝日の光を浴びてきらきらと光り、天井に星空のように無数の煌めきをちりばめていた。風が吹きこめば、これらの石はきちきちと僅かに音を立ててこすれあい、それに合わせて天井に描かれる赤白青金銀の色もまた揺れるのだ。それ程美しいものを俺はこの家で見た事が無かった。きっとはるか東からやってきた、誰かの考えたイスラムの風が髄まで染み込んだこの家の造りは、口にした事は無いが実のところあまり好きでは無かったのだ。
 そのまま寝転がっているのはとても不快なので俺は起き上がった。腹が減った。喉も渇いたし水でも飲むか。ふと隣を見やっても誰も居ない。何も無い、ただの冷えたシーツの海が広がっているだけだった。それは朝っぱらから奴のふざけた寝惚け面など見たくはなかった俺にとってラッキーな事だった。どうせ先にあいつは起きて何処か行ってるのだろう。俺は大して気にもせずに俺はそのままベッドを飛び降り、大理石でぴかぴかの床の上を走った。大声で怒鳴りちらしながら。俺が怒鳴ればあいつがやれ朝飯だ、洗濯だと甲斐甲斐しく世話をしてくれる。勿論今回も、俺はそれを期待していたという訳だ。

「おい!腹減ったぞこのヤロー!朝飯だ朝飯!なあトーニョ!」

 隣の部屋を見た。誰も居ない。俺は構わず続けた。

「喉かわいた!水飲ませろこのヤロー!トーニョ!」

 隣の隣の部屋を見た。誰も居ない。俺は苛立ちが着実に高まって行くのを感じながら、声を張り上げた。大理石の上を歩く俺の足音は、小さい。使用人の何人かとすれ違った。何処からか連れて来た奴隷だ。奴らは教養が無いせいで遠慮というものを知らないらしく、俺に向かって眉を潜めるような非常に無礼な素振りをしたが、別に俺は気にしない。俺が心広いのもあるし、兎にも角にも今は美味い朝飯と水が必要だった。いつもはトーニョが使用人に言いつけて朝飯を俺に食わせてくれるのだ。使用人に言いつけるのはトーニョの役目であって、俺の役目では無い。何しろ俺は毎日食わせてもらっている朝飯の名前が、具体的に何というのかも知らない。だから俺はトーニョを何としても探す必要があったのだ。

「おい!いい加減にしろよ!何処に居るんだこのヤロー!」

 朝から大声を出したせいで喉がからからだ。とことこと馬鹿でかい屋敷を歩いて行く。「トーニョ!」隣の隣の隣の部屋も、「喉渇いてんのにこんな大声出させるなよチクショー!」廊下のつきあたりの小さな勝手口から出た、「水!みーず!」小さな噴水のある吹き抜けの空間にも、「クソったれ」あのお間抜けな馬鹿野郎はいなかった。何だよ、と舌打ちが口から自然に漏れて出る。大理石に触れている所から、じんわりと俺の体温が逃げていく。なのに、俺の心臓は何か不吉なものを予感して、嫌な音を立て始めていた。

「おい、お前!トーニョ呼んで来いよ!俺喉渇いて死にそうなんだよこん畜生」

 俺は、そこらへんをほっつき歩いていた使用人に声をかけた。黒髪によく日に焼けた、俺とは全く違う色の肌をした女だ。女は好きだが、この女を美しいとは思わなかった。そいつは肌は荒れていて、身体はぺったんこに痩せていて、いかにも疲れていそうだったが、目だけはぎょろぎょろと大きい女だった。勿論、何処出身の人間にも俺は意思を通じさせる事が出来る。そいつの知っている言葉が何語と呼ばれているのかも、俺には知る必要が無い。だからこいつの出身地には興味が無い。俺が話しかけると、奴隷は困ったような顔をして、こう言った。「御主人様は、昨夜お出かけになられてから、まだ帰られていません」と。そこで俺の堪忍袋はぶちりと音を立てて切れた。

「何だそれ!?あいつまだ帰って無いのかよ!!」
 そもそも俺は昨晩あいつが出掛けていた事すら知らなかった。
「何処に!?」
「それが私の知らない名前の所で、覚えてなくて・・・あ、でも船に乗りなさると、おっしゃっていました」
「ちっ」
 舌打ちしたところでどうしようもない。俺はそのぎょろ目女にすがる事にした。
「なあ、朝飯!朝飯食いたいんだよ畜生!なあ、喉も渇いたんだよ、俺」
「わかりました、御主人様。ちょっと待っておくんなさいまし、女中頭に伝えてきます」
「それでいいんだよ、バカ」

 女は慌ただしく、俺より大きな足音をドタドタと遠慮も無く立てながら駆けて遠ざかって行く。ああやって野蛮に走りまわってこの舐めてもいいくらい綺麗な大理石の床が欠けたらどうすんだよ、とかいう風には、どうせ此処はあいつの家だしどうでもいいので言ってやらない。俺はもうすぐ朝飯と水にありつける事を確信出来たので、元の部屋に戻ろうと歩き出した。程よく汗をかいた裸足の足は大理石によく吸いつく。奴隷たちが毎日飽きもせずに床を綺麗にするものだから、こうして裸足で歩いたって足の裏は黒くならないのだ。喉は既に水を欲してカラカラを通り越し、ヒリヒリに近い状態にまで干からびていたが、兎に角あと少しベッドの上で我慢していれば水が貰える。俺はそれと同時に今日の予定を決めていた。今日は絵でも描いてだらだらして、アントーニョが帰ってきたらいの一番にしばき倒してやる。俺を朝一番にこんなに歩き回らさせて、こんなに飢えさせて干からびさせた罪は重いのだ。いつもみたいに、もーやめてえー俺が悪かったー、とでも情けない声を上げさせるくらいじゃ許してやらない。そうだ、今日はあいつの部屋に忍び込んで悪戯でもしてやろう。この程度で済んで有難いと思え、クソ馬鹿アントーニョ。
 てちてちと汗湿った足と大理石をひっつけたり離したりして歩いていると、暗い顔をした男とすれ違った。俺は通り過ぎてしばらくして、そいつを観察する為に立ち止った。そいつの服は、明らかに俺が着てるのやアントーニョの馬鹿が着てるものとは違っていた。何か赤黒いシミのついた、汚い雑巾のような服だった。何の飾りもついていない服だ。ズボンの膝の所はすり切れていて、穴が開いていた。そいつは更に、顔つきも肌も違った。顔つきも肌もさっきの女そっくりだ。黒い髪に、薄汚れた顔。目だけはきらきらとしていて、ミイラのように痩せてはいたが確かにそいつは生きているという事をそれは物語っていた。小柄な男だ。背中は丸く、骨が浮いて見える。他人事ながら、ちゃんと食っているのか俺は心配になった。身体だって汚れているし、きっと水浴びもしばらくしていないんだろう。とにかく汚い。俺は眉を潜めた。その時、突如、男は振り返った。そいつは俺の顔を見て何か言いたそうにしたが、結局前を向いて何処へやら歩き出した。俺はそいつの目が気に入らなかったが、そいつを捕まえて威勢の良い啖呵を切る勇気も無かった。だからそいつがゆっくりと、足をひきずるようにして歩いて行く末を見守る事にした。ところで、男の奴隷は珍しくない。この屋敷にも100人はいるだろうに、俺は何故だかありふれているはずのそいつから目を離せなかった。俺の心臓をわしづかみにしたのは、きっと不気味さだ。その男のあまりの生気の無さに、俺は戦いた。一日の始まりの朝だというのに、そいつは白く曇ったどんぐり眼で恨めしそうに、俺や廊下や、壁を見ていた。こんな浮浪者のような者が何故この屋敷に居るのか俺には理解出来なかった。使用人のくせに、こいつはさっきの女や他の奴みたいに制服を着ている訳でも無い。
 そいつの足元をよく見ると、大理石の上には水がなみなみと入った木で作った桶があり、その中に何か汚い灰色のぼろきれが浮かんでいるのが見えた。大理石にそいつの汚い足が映っている。そいつはゆっくりと屈むと、布を取り出しぎゅうと絞った。そして大理石を拭き始める。俺はその姿を見て安堵した。とても人間だとは思えなかったそいつが、何か不吉な、不気味な何かを背負って屋敷を背中を丸めてゆっくりと歩いていたそいつが、俺の理解の範疇に収まる仕草をした事に、安堵した。俺はそいつから目を離し、足取り軽く歩き出した。部屋に戻れば、美味い朝飯と水、熟れに熟れた果物が置いてあるはずだ。それを考えるとさっき男から与えられた不愉快な印象は溶けて消えて無くなった。俺には何の心配も要らない。俺にはあの男のようにはならない。俺は俺でよかった。俺はあいつらと違って仕事なんてしなくていいし、仕事をしろと怒られても誤魔化す事が出来るし、美味い飯がついてくるしベッドも柔らかい。明日も明後日もずっと、昨日みたいな日が続いていく、そう考えていた。











 そして結局、その日を境にアントーニョは帰って来なかった。















 使用人たちは否定の言葉を繰り返しながら俺の行く手を阻んだ。俺の向かいたかった場所は港だ。船に乗ってあいつを探しに行く。しかし使用人たちは口々に叫んだ。俺のような小さい身体でこの広い海を航海するなんて無理に決まっている、そう叫ぶのだ。俺は退け、と怒鳴った。

「あなたの手はロープすらも握れないほど小さいじゃありませんか」
「そんなの関係ねーんだよ!うちの兵を連れていくから退けよ!使用人の分際で!」

 俺の行く手を阻む使用人の中には、いつからか最近毎日飯を出してくれるぎょろ目の女も居た。その表情を見てひどく俺は苛立った。こんなにアントーニョが帰って来ないなんて、何かがおかしい。何故、お前らは動かないんだ!?何故、お前らは自分達の主人を探そうとしないんだ!?俺は我武者羅に前に進もうとしたが、出来なかった。脇に居た男が、俺を抱え上げたからだ。急な浮遊感に恐怖を感じ、その後俺は口にしようがない屈辱感を感じた。その男の顔はいつか見た浮浪者の顔にそっくりの顔つきをしていて、その顔には泣いて転がって強請る幼児か何かを見る目つきだったからだ。使用人のくせに、こんな小さい俺をそいつは片腕で抱え上げたのだ。腹が立った。俺は叫んだ。

「そうか!判ったぞ、お前らトーニョに此処に無理矢理連れてこられた奴隷だから、こんな風にトーニョが居なくなってせいせいしてるんだろ!!」
「・・・」

 使用人は何も言わない。じいと真黒で不気味なその眼で、俺をどんよりと見つめるだけだ。
 このやろう!トーニョのお陰で今食って生きているくせに!この恩知らずめ!
 俺はいよいよ腹が立って、その男の腕に思い切り噛みついた。ぎゃあ、という一際大きな声を上げてそいつは俺を地面に落っことした。俺は着地に少々失敗したものの、すぐに立ちあがって今度こそ駆け出した。玄関を出るまで後数メートルだ。裸足の裏をたんたんと大理石が固く打った。
 女たちは手を広げ、俺の背丈に合わせているのか背を屈めて俺を静止しようとした。しかしそんなもの、俺にとってはくそくらえだ。乱暴に押しのけて、実は懐にずっと隠し持っていた小さな果物ナイフを取り出した。

「俺は海に行く!!それ以上近づいてみろ、俺がざっくざくにしてやる!」

 使用人たちはナイフを見ると、さっと顔いろを変えた。男も女も怯えたような目をして、とうとう何も言わなくなった。奴らはようやく俺を見放したようだった。俺は早鐘の心臓はそのままに、玄関の向こうの光溢れる世界に踏み出した。もうそこは冷たく滑らかな大理石では無かった。裸足の裏に砂が付き、生ぬるい風が吹きつける、赤い花と青い空と緑が美しい世界だ。久しぶりに舐めた生の風は潮の匂いがしない訳でも無かった。そしてアントーニョの気配も。・・・しかし俺は久しぶりの外の世界に酔いしれ続ける余裕は無かった。これからどちらに行けばいいのかを、俺は知らなかった。そうだ、俺はアントーニョの家の外の世界がどんな地形で、どんな場所にあって、何処か自分が連れてこられたのかを知らない。俺の身体を船に乗せたのも、馬に乗せたのも、全部アントーニョだったからだ。だから俺は何も知る必要が無かった。
 だが今はどうだ。アントーニョが居ないばかりに、俺の世界は音を立てて崩れていく。世界は何処から始まっていて、何処に終わっているのかも奴がいないせいで土砂崩れで判らなくなってしまった。俺にとっての海は家を一歩外に出た瞬間から始まる。そしてその海は親しんでいる顔をして俺を未知の世界に引き込もうとする。俺はたった今その未知の世界に向かって船を漕ぎだしたはずだが、今早速その船は難破しかかっているようだ。だからといって誰かが俺に何か教えてくれるわけではなかった。使用人に尋ねる訳にもいかなかった。俺のプライドと、アントーニョのプライドの為に。
 俺は一人だ。アントーニョも居ない。
 俺の足はじゃりじゃりと砂を巻きこみながらゆっくりと進み、やがて止まった。立ちつくした俺の前に目の前に大きな影が出来、それはすぐに俺に覆いかぶさった。陽の光を背後にしているせいで顔は判りにくいが、背の大きな女だという事が判った。そいつがゆっくりと、俺の前に進んできたのだ。
 知らない女だった。今まで一度も見た事の無い女。そして、使用人で無い事もすぐ判った。

「なんだよ、」
「私が、知り合いに手紙を書くよ」

 女の声は優しかった。

「その人を、探してくださいって。私が知り合いに手紙を書くよ。彼はたくさん船を持ってるの」
「何、」

 女は他の奴がそうするように、背を屈めて俺と目線を合わせた。黒髪で少し肌が浅黒い。他の使用人ときっと同じぐらいの年の、同じような土地に住む人間のようだったが、少し性質が違うように見えた。長い真黒い髪が女の顔の周りにまとわりついている。風が吹いていた。

「だから、あなたは海に出なくていい。イギリスが、きっと私たちより上手に彼を探してくれるから」
「何勝手な事言ってんだよ、俺は港に行くんだ!退けよ畜生!」

 俺は果物ナイフを握りしめる拳が白くなっている事にも気付かないまま、女を避けようとした。イギリスに手紙を書くなんて事が出来そうな女に見えなかったからだ。その女の言う事は到底実現するようには思えなかった。女はナイフをもろともせずに俺の身体を両腕で抑えた。

「離せよ!」
「いや。だって君、港の場所も知らないでしょ?どうやって行くか知ってるの?」
「うるせー!俺はトーニョを探しに行くんだ!もしかしたらあいつ、何処かの悪い奴らに捕まってるかもしれないだろ!?俺が探しにいかなきゃ、誰が探すんだよ!お前もどうせトーニョが居なくなってせいせいしてるんだろ!?」

 そこまで来てようやくぼろぼろと俺の目から涙が零れて来た。そうだ、俺は怖かったのだ。最初から。

「俺が行かなきゃ誰も探してくれないんだ!こんなの初めてなんだ、あいつが帰って来ないの!絶対何処かで何かあったんだ、なのにこの屋敷の誰も探そうとしてくれない!馬鹿で間抜けの恩知らずばっかだ、だから俺が探しに行くんだ!」
「うん。判った」

 女はそう言うと、俺の頭を撫でた。その一言だけで、恐ろしい事に俺の敵意は完全に喪失してしまったのだ。俺は泣きじゃくった。周りの全てが大嫌いだった。非協力的な使用人共が憎かった、あまりに広い世界が怖かった、そして何よりも結局何も出来ず家で待っているだけしか出来ない自分が情けない。女はにこりと笑って、俺の身体を抱き込み、そのまま俺の頭を撫でた。そしてその時、彼女は自然な動作で俺の手から果物ナイフを抜き取り、ころんと床に転がした。

「アーサーに手紙を書けば、ここらへんの海をよく知ってる彼がきっと何かしてくれるよ。友達だもの。たくさんの船を持ってる。君の言うトーニョも、きっとすぐ見つかるよ」
「・・・それ、ほんとか?」
「君が一つの船で探すより、彼が100も200も船を使った方が早いよ。私が手紙を書くから、見てて」
「お前、そいつに手紙を書けるのか?」
 しゃくりあげながら尋ねると、彼女は何度もうなずいた。
「そう。古い友達だから、きっとよくしてくれるよ」
「おまえ、だれだ?」
「その前に、あなたのお名前は?」

 完全に俺を子供扱いするような口調なのに、不思議と腹は立たなかった。その代わりに、胸にちょっとした照れのようなものが芽生えくすぐったかったせいで、自分の唇にその名前を乗せるのを躊躇するほどだった。あれほど猛っていた心がすっかり丸く収まってしまっている事ぐらい自分でも自覚出来るほどだった。恐ろしい女だ。

「・・・ロヴィーノ。ロヴィーノ・ヴァルガス、"くに"だ。ほんとうの家の場所は此処からずっと遠くにある」

 その時ぴくりと動いた彼女の腕の重たさを確かに俺は感じた。しかし、それが何を意味するのかは判らなかった。彼女が動かす唇の動きに目をとられていたからかもしれない。

「私、私はね、。アーサー・カークランドの友だちだよ」