悲しかった。怖かった。もう限界だった。私は部屋に戻り携帯をひっつかみ、そのまま廊下を疾走し玄関に飛び出す。サンダルをつっかけ震える指で鍵の冷たい銀色のつまみを回そうとしたが、指が震えと汗のせいでつまみの上で滑って失敗した。どんどんと心臓が左半身を叩いた。こめかみの辺りが血が逆流したみたいに強張り、痛かった。

「あんた、どこへ行くの!!」

 火の点いた煙草を持った右手が襲いかかる。それに続いて爪の長い左手が私の胸倉を掴んだ。女の爪がぐいぐいと私の胸の肉に食い込んで痛かった。でもそうやって痛めつけられても、もうぬるい涙しか出なかった。「ここで殺してやる!」お前などとうに私は想像の世界で何十回も殺したのだ。今更そんな言葉が怖いものか。いよいよ右手の火が近づいてきて、間もなく私の頬を焼いた。私の頬の中に埋まった煙草の火は、興奮で更に敏感になった神経が脳を燃やした。女の煙草を持った手の、長い爪に塗られた真っ赤なマニキュアが、ぴかぴかと玄関口の電灯の光を反射してちらついたのが、痛みに燃える脳の片隅にちらついた。続いて、つんと肉の焼ける匂いも。
 逃げなければ。女の爪の力の方向とは無理やり逆方向を向こうと体をひねると、女は煙草を取り落とした。煙草は灰を私の頬の肉の中に残したまま、尚も女の暴力に抗う私の足元に落ちた。私は咄嗟にその女の手に飛びつきそれを噛んだ、噛み砕こうとするつもりで思いっきりごりごりと噛んだ。悲鳴を上げて女は飛びのいた。その様子があまりにも可笑しく、私は笑った。その隙をついて鍵を空け、私はようやく冷たい午前三時の外気の中に飛び込むことができた。
 私は走った。重心を前に、笑いそうになる膝を叱咤して走った。救いの手段を右手に握って。雨などここ最近全く降ったことが無いというのに、濡れたようなコンクリートの感触が足の指の間をぬるぬると滑った。携帯の電話帳機能を画面なんか見ずに呼び出して、シャルの画面をメモリから引きずりだす。決定ボタンを何回も押してコールした。彼は三回のコールで電話に出た、そして言ってくれた、すぐに行くから待っていてと。
 ふと上を見上げると、暗い夜空にちらつくか細い光たちが、息を切らしてみっともなく我武者羅に走る、私の、この壊れそうな心臓を包みこんでくれていることに気づいた。



***



 シャルがペダルを漕ぐ度に、周囲の静かな家々の壁はわたしたちの滑らかに後ろへ流れていく。シャルが私を自転車で迎えに来た頃には濃青色だった壁が、今はほのかに明るくなって薄まり、時折所々をベージュ色に光らせていた。私は流れていく景色の中で、壁に着いた汚れや木々を目で追うのに飽きたら、シャルの背中のシャツの皺を数えたり、そんなことばかりを繰り返していた。
 自転車のサドルの真後ろの荷台は、疲れ果てたお尻と太ももに痛かった。シャルの腰に手を回して、すぐそこで揺れる彼の脚の感触を子守唄代わりにして私はうつろいだ。
「どこへ連れて行ってくれるの?」空は白じんでいて、もうすぐ夜明けなんだったとようやく気付く。あの魔窟から逃げ出した頃見た小さな星たちはもういなくなっていた。空の一角がうすく白い空がたなびいていて、ああきっとあちらが東なんだとぼんやり考えた。
「このまま誘拐してあげる。ずっと遠くまで」
 さっき養母にしてやられた頬の火傷のまわりが、爪の食い込んだ胸が、そしてさっきから私の脳に何一つ映さない私の目の奥、さらにこうやってぽつりぽつりとシャルと言葉を交わしている私の脳の中の意識までもが、重く腫れて痛かった。こうやって私はシャルにしがみ付いてないと動くことすらもできない。ふと気付くと、さっきの小さな星たちはすっかり空から姿を消していることに気づく。今さっき、シャルにようやく会えたから私はもう大丈夫だよ、ありがとう。私は消えゆく星たちに心の中で小さく感謝した。
 こんな碌でも無い生だけれど、ずっとこの先二人だけで居られたらいいのに。
「おれはと一緒なら何処へでも行けるから」
 このまま夜明け前の光の海の中に溶けてしまいたい。