沈黙の春



深海のような森だった。何百年とかけて成長し続けている大樹が何本も山脈のように聳えた立ち、幹に大縄のようなツタを絡ませ大きな緑の館を思わせた。またその幹には白い胞子を吹くものがあった。上から透けて降り注ぐ光は葉と葉の隙間を通る間に毒の胞子を含み青く変色し、全く異質のものとなって地面に降り注いでいた。同時に雪のように白い胞子が降り注いでいる。光と同じように、さも光と同じように自分は綺麗だと白々しい嘘をつきながら。そしてその地面は今や分厚い胞子によって地肌が覆われ隠されており、足場として非常に不安定だった。その胞子を蹴り上げれば粉雪よりも細かくなってちりちりと光に当たって煌いた。これだけ見ていればどんなにか美しい処だと勘違いするだろうか?この雪が猛毒と知らなければ。この毒がこの森を沈黙の森に変えてしまった。もはや今ではこの毒に耐性を持つ生物しか此処には棲めなくなってしまっているのだ。その胞子の雲の上で一つずつ進んでいく中で、(全く辺鄙な所だ)とクロロは感心していた。この胞子の毒には専用のガスマスクを着けていなければまもなく肺を焼いて、人を殺すだろう。しかもこの森には大きな蟲が棲んでいると聞く。先ほど、人間一人が武器も持たずにこの森に入るなんて無茶だと散々村の人に説得されたのが脳に掠めた。クロロは自分の腕に自信があったからそれを聞き届け無かったが、それでも少しの恐怖に心を震えさせずにはいられなかった。この森はこの森に棲む何かと一緒に、不気味に息をしている。何も言わずに、その絶対的な雄大な青を以ってクロロの行動を監視しているのだ。それを感じ取って戦慄めかずにはいられなかった。しかしその辺鄙な所で仕事に精を出している女をわざわざ尋ねてきて此処に居る手前、背中を向けて森から這い出るという事もクロロの選択肢には無かった。
一向に目的が達する事が出来ないために携帯を取り出して確認するがやはり圏外だった。が今何処に居るかもわからない。気分が悪くなってガスマスクを通して大きく息をすると、口の中に入ってきた途端一層その渇いたぬるさを増した。すなわち不安だった。森を引き返す道を覚えてこなかったので、それは忽ちクロロにとっての死活問題となる。そうなればに間接的にでも殺されてしまうのだな、と考えると余りに現実味の無い話に自ら笑ってしまった。上からもしんしんと降り続ける胞子がキラキラと閃光のように目にちらついた。ずっとこのまま立っていればいずれ頭のてっぺんまで覆ってしまうだろう、それ程の量の速度で胞子は振り続けている。は何処だ。
「こっちだよクロロ」
呼ぶ声がしたがそれはあまりにも小さく、それは森の木々と胞子に吸収されてしまうが故だとすぐに判った。辺りを注意深く見渡すと、太い大樹の何本か向こうに大きく場が開けている処があるらしかった。胞子が飛び散るのも構わず、クロロは走って駆け寄った。そうするとガスマスクがきしきしと音を立てて揺れた。その場に辿りつくと彼はあっと声を漏らしそうになった、何とその彼女が大きな何かの生物の上にガスマスクを外して座っていたのだから!(これは、何だ、これが蟲とやらなのか)(それともこの森の神とでも言うのか)(こいつはそういう奴だ)
「すごいでしょう。これは子供の蟲よ」
「これが子供なのか?」
「もっと、大人は大きいの。きっとクロロの想像のつかないくらい」
「お前、ガスマスクはいいのか?」
「クロロ。此処ではガスマスクは要らないの、どうしてかわかる?」
はその子供の蟲の「殻」から飛び降り、クロロの処まで駆け寄ると何の躊躇もせずに彼のガスマスクを外した。ついでにゴーグルも。そして言った、人間の汚した水が吸収され、その汚染物質が生物の中で結晶化される。その有害な結晶は、ごく自然な摂理によって生物は体内から出そうとするのよ。それが毒の胞子となるんだけれど、此処一帯の水はとても綺麗な水なの。だから毒は生物の中で結晶化されたりはしないし、勿論胞子も毒を含む事は無いわ!
「森の最深部にはまだ、こういう所が何箇所も残っているの」
「成る程。それは知らなかった」
「今日はどうしたの?」
「いや、少しに逢いに」
「それはまたどうして」

そこでも胞子はさっき程では無いが降り注ぐようだった。が目を細めて笑うとまつげにそれが乗ったのが判った。やはりはこの森を深く愛している。おそらくクロロよりも。


「お前に最近逢っていなかったからな」

反応を待つ前に軽く口付けた。
でもそうやっていくらキスをした処で、いくらそんな不安定な訪問を繰り返した処で、は彼の中に棲もうとはしないだろう。きっと今日のところは彼女はクロロの処へ戻り、一緒に森の帰り道を案内しながら戻る。そしてその次の日にはクロロが「穏やかに二人で過ごそう」と言って色々な所へ連れて二人で歩くだろう。二日目には二人で海に出かけて、日が暮れても海辺を歩き回って遊ぶだろう。三日目にはクロロは山や森から離れた、海とも違うまた別のところを意地でも探し出して彼女を連れて行くのだ。
でも、四日目には森の話を始め、クロロの心を翳らせる。五日目には彼女は小さなため息を寝る前に吐くようになるだろう。そしてついに十日目にはクロロがどんなに言おうとも、深海の森の傍に二人一緒の宿をとる。そして十四日目には彼の顔を振り返りもせずに去っていくだろう。そして、それが価値の無い空しい事だと思っていてもクロロは半年程時間を空けたらまた彼女を迎えに行く。
クロロがどんな高価な贈り物や希少な宝石を贈ったって彼女はいずれ森へ去ってしまった。例えその深海の淵で暗い冷たい死に触る事があろうとも、はクロロの元へ戻ろうとはしない。
それでも彼は待ち続けるのだ。こんな有毒な胞子と比べられてこんな事になっているわけではないとクロロは判っているから。を死ぬまで魅せているものは、つねにその頬を湿らせている暗い大海の死の空気であるから。

たとえ死んでも手に入らない、それがクロロとの絆だった。





ナウシカパロ