「マチ、今から帰る?」
「帰るよ。あんたは?」
「帰るー。一緒に帰ろう」
マチは勉強にもう飽き飽きしたといった表情でカバンを手に取った。殆ど何も入れられていないそれは、中身と反して革がぼろぼろに使い古されており、くたびれていた。私もカバンをとっこいしょと肩に引っ掛けるようにして、教室を先に出て靴を履き替えた。制靴は半年前に買い換えたものだったが、もはや新品のような真新しい初々しい固さなど持ち合わせていなかった。踵を踏んでしまってぺちゃんこにしてしまったためにふにゃふにゃになった革が踵に当たった。怠惰だなあと靴に心の中で問いかけた。一番怠惰ぶっているのは、言わずもがな、私だ。
マチは後を追って教室から出てきた。靴箱を空けた時に彼女の髪がふわふわと揺れた。その髪は今まで何度も何度も先生から染め直せだの、切れだの言われてきたものだったが彼女は一度も応じようとはしなかった。そんな彼女の頑なな態度に先生達も諦めたのか、この時期にはもう何も言わなかった。彼女のふわふわはパーマ由来のものでは無いのか、と本人にこっそり聞いた事がある。マチは、それに少し笑ってさあどうだろうと返事しただけだったっけ。
「久しぶりだね、一緒に帰るのは」
と言うのも私が暫く最近出来た彼氏と帰っていたからで(彼は私と執拗に帰りたがったのだ)、マチはその事情をしっているのかその時に静かなため息を忍ばせた。校舎の外へ出ると其処は真っ赤な真っ赤な夕日の下燃える世界で、私達は綺麗だねとありきたりな、でもそれだけこの世界にしっくりとくる言葉を呟き合いながらゆっくりと駅までの道のりを歩んだ。夕日の光は私を骨の髄まで温める。横を向くと私より幾分背の小さいマチが、ふわふわの髪をゆらゆらと夕日の光に煌かせ遊ばせながら歩いている。ピンクの髪の毛は今や紅色に見えた。見とれていると彼女がこちらを見て口が開いてるよ閉じなよ、と笑った。
夕日が落ちつつある中をほそぼそと会話をしながら歩いたが、その一歩一歩踏みしめる度に私の中の違和感は少しずつ大きくなった。何故だろう、今、あの人と一緒に居る時よりも解放感を私の体を満たしているのは。世界がほの暗くなっていくうちに明るい時に見えなかったものが見えるようになっていくようだった。
「あんたさ、今あいつと上手く行ってる?」
「シャル?」
「そう」
「うん、まあまあ」
「あいつ、逐一行動するのに付いて回ってくるだろ」
「うん、まあね」
「知ってるよ。暫くがあたしと帰れなかったのもあいつが嫌がったからなんだろ?」
「・・・・うん。ごめんね」
マチは「いいんだよ別に」ともう一回ため息をついた。その横顔は夕日に縁取られ、ものすごく寂しそうに見えた。影は赤銅色、眼は赤色に輝いていたが、しかし白目の処まで真っ赤だった。(それは夕日のせいには、見えなかった)判っている、マチは私を心配してくれているんだって。マチは私とシャルが別れればいいと思っている。私が幸せだと強がりを言っていたから彼女は今までその言葉を口にした事は無かったけれど。彼女の真っ赤な白目は、それを言いたくて理性も何もかも打ち負かして、私の頬をぶってやりたいと思っているのかもしれない。(それならば、私は甘んじてその手を受けるつもりだ)
「私この時間帯の空が一番好き」
「へえ?」
「青い空って死ぬ程憂鬱になるの。だから、この黄昏時が一番好き」
「憂鬱?」
「そう。でも不快な憂鬱じゃないの。見ていたらそのまま昇ってしまいそうになるくらい、心地よい憂鬱なの。どきどきするの」
「それってすごく好きって事じゃならない?」

この身が昇っていきそうなくらいどきどきする、そしてすぐにその舞い昇ってしまったこれまでの高さを見て恐怖におののくのだ。そうして堕ちて再び地面に降りて、その落差に落胆したくないのだ。その落差は私にとって死に値するかもしれない。蝋で作った羽で太陽の近くまで行こうとしたイカロスみたいに。

「そう。でも、憂鬱なんだ。憂鬱なのは憂鬱なんだ。だからこの黄昏時がいいよ。綺麗で、のんびりする。この真っ赤な光が空気中の汚い埃のせいだって思えないくらい!」
「あんたって変わってるね」
「マチもね」
携帯のバイブレータの音がした。その音がするのはマチの方では無い。私の制服のスカートの方だった。それが判った途端に心臓がどんどんと早くなり始めた。恐怖で、今しがた温まりかけた心が、気持ちが、熱く真っ赤な血の色になっていくような気がした。彼が怒っている、きっと。この電波の先で。取らないと、とスカートを探し出したこの腕をマチが手に取った。
はおかしいよ!あいつ暴力振るったりの携帯壊したりむちゃくちゃやるんだろ?遊びに行かせてもくれないんだろ?あんたそれで幸せなの?あたしはあんたが幸せじゃなさそうに見えて仕方が無いんだよ!いっつも泣いてるあんた見て、いっつもあたしは思うんだ。何であんなシャルナークなんかみたいな奴に惚れちまったんだって!あたしがちゃんと見てあげておけばよかったって!」
首を振って、私はマチの掴む手をやんわりと違う方の手で掴み、離させた。携帯を取ると案外静かなシャルの声が聞こえてきたが、これが嵐の前の静けさだって事は私にもいい加減判っていた。今度は何だろう。シャルは今日は残って追試を受けると言った私を置いて帰ってしまった。それは今私達が昨日喧嘩した事に起因するものだが、今の「駅で待ってるから」の言葉は昨日の続きにちがいない。私が叫び出す事も無く静かに会話を済ませ電話を切った事に、マチは少し面食らったようだった。「シャルじゃなかったの?」と少し気恥ずかしそうな顔をした彼女に、「ううん、シャルだったよ」と言って私は笑った。
「駅で待ってるだって」
行くつもり?」
「うん」
「何されるか判らないのに?」
「うん。好きだから」
マチはものすごく何かを我慢しているような、悲しそうな顔をして、しばらくその場に立ち尽くして何か考えていた。彼女の立ち姿は美しかった。真っ白な夏服が、ますます見る間に真っ赤に染められていく。彼女の少し潤んだ目も、また。
「そう、じゃあ、あたし駅まで一緒に行くよ。危なくなったら、何時でも電話しなよ」
私の目じりには既に涙が零れていて、それはぽたぽたと透明な音を立てて地面に落ちた。軽い水滴の、重い音だった。とくとくと心臓が次第に落ち着き、私達はそれからの道は二人で手を繋いで一緒に歩いた。マチは、最後まで泣かなかった。
青い空はあの人のものだ。あれを見るたびに憂う私の心はあの人のものだし、それは何にも代え難い。憂鬱ながらに気持ちいいんだ、この中に居ているのは。あの白い雲の間の空間の、厚い大気の粒が光を反射して出来る雄大な蒼穹は私の背中に凭れ掛り、私の喉を苦しくなるまでに逸らせて声を上げさせてはくれないけれど、私はやはりあの蒼穹を愛している。夕焼け空はあの青い空に逢わないから判らないかもしれないけれど、その暖かさと紅い涙は、貴女の優しさに触れて流れるんだ、私の心に。滝のようにごうごうと音を立てて、注ぎ込むんだ。


曲がり角と行き止まりだらけの人生だけれど、

それでも皆笑ってられるのは

涙があるからこそ

前に進めるからなんだよ。

多分きっと。