この美しい世界





 夢を見た。
 自分は古代の森の中にいた。地面は苔むしており、所々澄んだ水たまりがあった。足を踏み出すと、長い間そこにあった苔がつぶれる音が微かにした。その中には小さい花のようなものをつけているものもあった。空気は酷く静かで澄んでいた。息をすると、その度に空気に漂うその不気味な生き物が肺に滑り込んでいくような心地がした。その生き物もまた太古の命を持っているのだろう。何百年も前から、ずっと変わらずそこに溜まっているのであろう。辺りは薄暗く、それは上から降り注ぐ日光があまりにも限られているからであった。辺りには淘汰が進んでいるのか、余分な草木は殆ど生えていなかった。全てはこの何百年も前から此処に聳え立っているのだろうこれら大樹の葉が、遥か頭上遠くで日光を遮っているからに違いなかった。風は無く、空気が何千年も前から此処にあるものとしても間違いは無さそうだった。
 太陽の光は木々の葉の隙間から漏れ出て、光の柱となって、所々地面を照らしていた。それらはこの閉塞的で時間の止まったこの空間に辛うじて下界とのつながりを保ち続けているかのように思われた。光の柱が無ければこの森はとっくに闇の中に埋もれ、そのまま誰にも知られず生命のサイクルは永遠に止まったままだったのかもしれない。あまりにも静かなので、銀時には自らの心臓の音しか聞こえなかった。その心臓の音は勿論下界からもたらせるものではなく、自らの体内の内臓、骨、筋肉を伝ってその鼓膜に届いているだけのものだった。(此処は何処だ・・?)銀時は急に心細くなった。そこではその心臓の音、唯一の自分の存在の証の音だけが頼りだった。そのまま恐る恐る歩みを進める。身体は軽く、空気はひんやりとしているはずなのに、首筋にはうっすらと汗が浮かんでいた。その表情は驚きと恐怖が何にも隠されずにあった。それが誰にも隠される事のない、銀時の本音だった。
 しかし銀時はちっとも危険だとは思わなかった。その代わり彼を支配するのは、表情に表れる焦りと驚き、そして感情の水面に表れるは少しの好奇心と興奮だった。
「冷てえ・・・」
 ためしにつぶやいたその一言は、戦場や、此処とは違う森の何処かで響くそれとは明らかに異なっていた。いや、響くという表現もふさわしくなかったのかもしれない。殆ど響かないように思われたのだから。この周囲に漂っているのは気体では無いのではなく全く未知の物質ではないかと疑ってしまう程に、自分の声は拡散しなかった。自分の知っているものとは此処の何もかもが違う。その事に銀時はほんの少しだけ戦慄した。
 気付けば自分は此処にいた。それまで何をしていたのか、何故此処にいるのかなどという事も全く覚えていない。否、むしろそれらの事項は自分にとって些細な事で思い出す間でも無いという気持ちすらしていた。
 その時、森の中の木々の中に金色に明るく光る所が見えた。突然の事で声帯が痙攣し、あ、と声を出す事も叶わなかった。そこには扇状に広がる何本もの角を持つ、4本足で歩く金色の「何か」だった。その「何か」の名前を銀時は知らなかったし、またどう形容していいかも判らなかった。思わず目を見張ると、その「何か」はじっとこちらを見つめ、そのまま歩いて去ってしまった。金色の光は消え、暗闇となってぼやけてしまい、もはやその「何か」が通ったのがどの辺りかも判らなくなってしまった。
 あれは何だったのだ、そう考える前に左胸にじりりと痛みが走った。何かに焼けたようなじっとりとした痛みで、思わず声を上げる。その時、はっと何かに気付いたかのように頭上を見た。先程自分を一瞥した金色の「何か」が自分の額にすうと息を吹きかけていた。その時銀時は横になっていて、その息の流れが鼻にそって流れていくのが判った。そして、その息の中にいのちの息吹なるものを感じた。
 いや、俺は立ち上がって歩いていたのではない。銀時は気付いた。俺は寝ていたのだ、最初から。(ああ、一体何が起こっているんだ)疑問が頭をよぎると同時に、突如周囲の光景が泡立ち、一気に水中から自分の身体が引き揚げられた。


***


「気がついた?」
 顔の上でそう言って己の顔を覗き込む、その女の顔を見ると全てが思い出された。ああ、そうだった、自分は確か。
「獅子神様が、あんたを助けた」
 思わず左胸に手をやる。石火矢で打ち抜かれたはずのその胸。しかし服の破れている箇所に指を滑らすと、傷がすっかり塞がってしまっているのが判った。女の名前はといったっけ。今しがた手の内に戻ってきたばかりの記憶を手繰り寄せて銀時は考えた。そうだ、自分は確か、蹈鞴場の傍でこの娘の命をもらいうけ、そのまま担いであのムラを去ろうとしたのだった。その途中、後ろから弾を受けた。その弾は運悪く重要な器官を傷つけてしまったに違いない。ムラを出てからの記憶が無かった。ただ、娘の背中を見ながら、娘の匂いを嗅ぎながら気を失った事はおぼえていた。娘の匂い。獣と人間の混ざった匂い。しかしそれは獣になりきれない匂い、人間になりきれない匂いだった。今思えば、あれはなんてあやうさだったのだろう。
「だから私はあんたを助ける」
 女は懐から乾いた肉のようなものを取りだした。それを見て銀時は急速に喉が乾いていくのを感じた。内臓が波打ち肺が収縮し、銀時はその時確かに大きく息をした。それはあの森の中でしていた感触とは違い、自分のよく知る感触で深く安堵した。ああ、俺は生きている。確かに生きている。
 女の顔が視界の端に消えると、その代わりに頭上で銀時を見下ろしているのは透き通った空だった。木がこの周囲だけ生えてないらしく、その空は数え切れない程の木の葉で丸く切り取られていた。空は薄い色をしており、ひどく儚かった。

 銀時はその時何か熱いものが胸に込み上げてくるのを感じた。あの夢に見た世界は死後の世界だったのだ。恐ろしいとは思わなかったが、まだあそこに行きたくないと思った。そしてあの金色の「何か」、獅子神様はこんな自分に命を与えてくれた。でも何故だろう?もっと生きて永く苦しみ、後悔し、人間全体の罪を償わせようとでもしたのだろうか?
 しかし、自分の為に肉を細かく食む女の横顔を見ていると心が落ち着き、不安は砂のようになって散り散りになっていくのを感じた。
ああ、お前は、美しい。
、此処は、浮世か」
「そうだよ。あんたは生きている」
 ゆっくりと、言って聞かせるように言葉を返す。女は銀時の目尻から涙が一筋だけ、すうと流れて落ちるのを見た。それは再び生きる事を許されたよろこびからだろうか、かなしみからだろうか?きっとそのどちらもだ。それは当然のことだった。女はそっと銀時に口づけ、口の中に含んで柔らかくしていた肉を少しずつ彼の口に移していった。それらはゆっくりと彼の口の奥へと、ごぼ、という音とともに、喉の奥へと消えていく。すると銀時は小さく「よかった。お前も、生きていたんだな」とだけ言って、しばらく涙を零し続けてた。


世界は、美しい。









今度はもののけパロ