は未だに信じられない。







「はじめまして。あの、アメリカから来た、です。親の都合で、アメリカのロスアンゼルスにいました。そして、今日からこの陽泉高校に来る事になりました。どうぞ、よろしくお願いします。」

「それでは皆さん、どうぞさんと仲良くしてやってくださいね」

 ぱちぱちと拍手が起こった。目の前で拍手をしている誰もが、見るからにやせ細っていて、焦燥している、この不健康そうな自分を見て戸惑っているようだった。笑顔を必死に作るが、きちんと笑えているのか自信がない。

 どうして、自分は日本にいるのか。未だに、頭が理解出来ていない。
 自分の周りに起こったことに、未だに整理が追いついていない。

 は未だに信じられない。
 あれからの一ヶ月は怒濤のように過ぎて行った。まず、あの日の翌日、両親は離婚する事になっていた。は辰也と一緒に日本に帰国し、辰也の祖父母に面倒を見てもらう事になった。父親は仕事でアメリカに残り、のママは日本の東京に戻る事になった。

 辰也はあの日、何をしたのだろう。
 が一番最初に驚いたのが、辰也のパパが自分を秋田の実家に引き取ると頑な言い張った時の事だ。辰也はに懇願した。

「いいかい、俺を信じて、。もしママにどちらについていきたいか聞かれたら、必ずパパと答えるんだ。俺と一緒がいいって、日本に行きたいって、必ず言って。ママにどう言われたって、絶対に聞いちゃいけない。俺と必ず日本に来る事。わかった?」
「でも、パパは…私を、」
「大丈夫。パパは日本に来ないから。、いいかい、は秋田で俺のおじいちゃんとおばあちゃんと暮らす。一緒の高校に行こう。俺たちは最早家族じゃないかもしれないけど、でも大丈夫。絶対に家を追い出されたりしない。俺がさせない」

 は辰也を完全に信頼していたから、その通りにした。
 辰也が振るタクトの通り、は口を動かした。
 ぐちゃぐちゃにつぶれる家庭の上で、辰也は薄い笑みを浮かべて踊り続けた。
 するとどうだ。一ヶ月後には、は秋田の高校の教室の中で、新しい人生を歩み始める事になったのだ。

 その辰也もきっと今頃、一つ上の階で自己紹介をしている事だろう。
 そして、自分とは異なる氷室という姓を名乗っているに違いない。

「それじゃあ、さんの席はそこね」

 担任の先生が自分の名字を呼ぶ。聞き慣れない自分の旧姓、いや本来の姓は、いびつな音のつながりだった。耳障りだ。しかし今日から、として生きていく。それでいながら、毎日氷室と表札のかかった家に帰り、氷室の家で、として生きていくしかないのだ。

 指差された席は、アメリカでよく目にしていたタイプとは異なり、こじんまりとしていて、座高が低く、それでいて精巧なつくりをした机と椅子だった。が席につくと、担任の先生はこれで大仕事が終わったと言わんばかりにため息をつき、ホームルームを始めた。聞き慣れない日本語が教室に響く。
 日本語で授業を受ける日が来るなんて。自分が、アメリカを出る日が来るなんて。ホームルームは滞りなく進んで行く。ここに一人、何もかもが置いてきぼりになって、何も自分の身に起こっている事が理解できないでいる生徒が居る事にも気づかずに。





***






は先におやすみ。ママにもパパにも、俺が話をつけるから。だから、寝室から出て来たら駄目だよ。話が余計複雑になっちゃうから。俺が全部何とかするから、とにかく部屋に居て」

 あの日、塾から二人で家に帰った後。自転車をガレージに仕舞いながらそう言った辰也を、は何の疑いもなく信じた。辰也とは玄関から家に入り、をそっと二階の寝室へ行かせ、自分はリビングに入って行った。は寝室に行くと見せかけてこっそり廊下で聞き耳を立てていた。案の定、ママのヒステリックな金切り声と口汚く罵る声が家中にこだました。パパはまだ帰ってこない。きゃんきゃんとすすり泣いたり、怒りに任せて怒鳴ったり、ママはずっと辰也とを親不孝者だと非難しているようだった。は耳を覆いたくなったが、でも辰也の受けている仕打ちは自分も受けなければならないものだから、と辛うじて思いとどまった。
 やがて、ママのヒステリックな声がぴたりと止まった。は訝しく思い耳をそばだてたが、リビングは気味の悪いほどに静かだった。
 突如、電話が鳴った。誰かがそれを取った。辰也の声がした。

なら、俺がつれてきたよ、父さん。ごめんね、でもそうしなければならなかったから。話があるんだ。帰ってきてくれないか」

 辰也の言葉がいやにはっきり二階にいるに届いた。はパパが帰ってくると聞いて、慌てて寝室に戻った。自分のベッドに戻り、布団を頭から被る。視界が真っ暗になった時、は重たい息をついた。
 辰也はどうするつもりなんだろう。まるであの時の辰也は、何か切り札でもあるかのような落ち着きぶりだった。先ほどから辰也のあの姿には違和感を感じずにはいられない。

(寒い…)

 ここのところ、ずっと二人で眠っていたから、自分以外の熱が無い事になんとも言えない寂しさを感じる。は自分の体を抱いて、瞼を閉じた。



***



 辰也は、テレビに釘付けになる父親の横顔をぼんやりと見つめて物思いに耽った。ママは怒鳴っていたら疲れたと言って、シャワーを浴びに行ったから、今が絶好のチャンスだ。パパに、全てをばらす為の。

(これで終わるんだ。ようやく)

 テレビには、辰也が友人から借りて来たビデオカメラで撮影した光景が映し出されていた。ビデオカメラは何か紙のようなもので覆われているらしく、画面上部には少し影が映っていた。辰也の勉強机の上にカメラが置かれているようだった。少し見上げたような角度で、カメラは辰也の部屋の中を映し出していた。

 辰也が何か机の上で書き物をしていると、ノックがあった。「はい」辰也が返事をすると、ママが部屋に入って来た。冬だというのに、随分薄着だ。ネグリジェ一枚という出で立ちで、彼女は部屋に入って来た。

"辰也、今日は放課後どうしてたの?"
"…友達とバスケしてたよ、母さん"
"そう。シャツが泥だらけだったから…"
"コートの中に水たまりが出来てたからだと思う"

(これで、全部が終わる。俺は、お役御免だ)

 父親と一緒にビデオを見る辰也の目には、感情のかけらも無かった。しかし彼の血の通った父親の方はそうとはいかない様だった。嫌な予感を感じているのか、彼の分厚い握りこぶしは今や白くなるまでに握られていた。

"そう。元気な事はいいことだわ。ねえ辰也、今日はパパ仕事で帰ってこないし、今のうちに…"
"…"
"しばらくしてなかったから…ほら、溜まってるんじゃない?"
"いや、ママ…大丈夫だから"
"でも…。そんな事言って、前も結局たくさん出したじゃない?"
"…"
"も今塾に行ってるから、十時まで帰って来ないわよ。どう、清々してるんじゃない?あの子辰也にくっつきすぎよね、私からもしっかり言っておくから"
"ショーコさん。前から思ってたんだけど、もしかして、に塾に行かせたがったのはそういう理由なわけ?"

にはとても見せられないな…このビデオも、さっさと壊してしまわないと)

"まあ、そういう理由もあるわよ。仕方ないじゃない。いっつも引っ付いて回って…子供のくせに色気づいて、あんまり辰也とこういう事出来ないでしょ?ほら、辰也"

は、これを知ったら、俺を軽蔑するかな。俺を愛してくれるかな…)

"いつもみたいにベッドに寝っ転がって、ズボンとパンツを下ろして…"

「これは、何、何のビデオだ!!」
「父さん。これは父さんに見てほしくて、母さんに内緒で録ったビデオなんだ」

"ふふ…辰也、もう、わかってるでしょ?いつもしてるんだから、…"

 そう言うと辰也はおもむろに、パパの座る椅子の元にすがりついてみせた。目につんとくる鈍い痛みと、溢れる熱い涙は決して演技ではない。パパの顔は驚愕のあまりひどく歪んでいた。辰也は涙で声を濡らしながら訴えた。

「父さん、俺を助けて」

 さあ、父さん。ここからだよ、しっかり見て。あんたがにしでかしてきた事を、息子がされる様をしっかり見て、思いっきり胸くその悪いこの光景を目に焼き付けてよ。
 そして早くあの女を家から追い出して。俺はあの女から、全部を奪ってめちゃくちゃにする手伝いを、あんたにしてほしいんだ。




***




 飛行機がどこかで飛んでいる音がする。頭上をふと見上げると、薄い色の空をまっすぐに、飛行機雲がどこかに伸びていた。
 辰也はと下校を共にした。何人かの生徒は、達を好奇の目でじろじろと見たが、辰也は全く気にしなかった。

「ねえ、どうだった?新しいクラスは?」
「うん…なんか日本語で授業って、変な感じだったよ。皆生徒も全員日本人で…でも、何とかうまくやれそう」
「そうか、俺もだよ。思っていたよりこっちの人はフレンドリーだったな」
「うん…」
?大丈夫?顔色が悪いけど…もしかして、こっちの人に何かされた?」
「ううん…なんだか、まだ、私が何で此処に居るのかよく判っていなくて…整理がついてないっていうか」


 辰也はの手を握り、立ち止まった。もそれに習い立ち止まると、辰也はの胸の前に握った手を持ち上げた。

「大丈夫だよ。此処で俺とは、高校時代を過ごすんだ。誰の妨げにもならず、誰にも邪魔をされず、静かに平和に暮らせるんだよ。俺は一足先に卒業するけど、俺は一年間、が来るのを必ず待っているから」
「あの、辰也、そうじゃなくて…」
「パパだって年に一回しか帰ってこれない。はもうあんな目に遭わないで済むよ、だから安心して。俺たちは、居たいだけ一緒に居れる。此処は確かに俺たちにとって新しい環境だけれど、二人支え合って生きていこう」
「でも、どうしてこんな上手く行ったの?どうして、パパとママは離婚したの…?理由を聞いても、仕事がとか家族仲が悪くなったとか、何だかはぐらかされてる感じじゃん。辰也も知らないって言ってたけど、本当は知ってるんでしょ!?いい加減教えてよ!」


 辰也の瞳が翳る。笑みが深くなる。辰也の甘い媚びるような表情が、を真正面から捉えてはなさない。

「俺はよく判らないって言ったろ?パパとママがしっかり話し合って、決めたんだ。はママが居なくなってしまったけど、俺とずっと一緒だ。に悪い事をするパパも居ない。終わりよければ全てよし、だろ?」
「でも、しっかり話し合ったって…あんな一晩で!?それより前は全然そんな様子じゃなかった!しかも、あんなに私と辰也が一緒に居るのをいやがって、詰って、気持ち悪いって言ってたのに…こんな風に一緒の家に住まわせる事を許しただなんて…」
「俺が説得したのさ」
「どうやって?」
「俺達が、両親の再婚で内心とてもストレスを抱えていて、なんだか寂しくなって…それをお互い埋めようとしたんだって話をしたんだ。俺たちは、所詮他人の子だからね。血はつながってないから、そういう所で生じるはずの生理的嫌悪感なんかは全然覚えなかったんだって。その時は、俺からも絶対にこういう事はしないと二人の前で誓ったんだ。だからだよ」
「まだあるよ。あの時なんで、パパに着いて行くように言ったの?あの時の辰也、まるでこの先どんな事が起こるか判ってるみたいだった…ママが必死に私を連れて行こうとするだろうけれど、聞いちゃだめだって。パパは絶対に私を辰也と一緒に日本に行かせたがるはずだからって、言ってた。あれは何で?」
「それも、俺が説得したんだよ」
「え?」
「俺は日本に行くけれど、その時はも一緒じゃないと駄目だって、父さんと交渉したんだ。も俺も、この先アメリカの高校に行って、大学行って、就職する事も出来たけれど、せっかくの機会だし日本に戻る事もいいかもしれないだろ?俺たちはそもそも日本人だ。それに、グリーンカードも取得前だったし、父さんも永住する気は無さそうだった。いずれにせよ俺たちは日本に戻らなければいけなかったんだよ。それが将来数年先か今か、それだけの話だったんだ」
「本当に…?」
「何度も言ったろ?大丈夫、俺がとパパの事を知ってるだなんて言ってないから。に恥をかかすような事は、俺は決してしない。信じて、
「…」
「しんじて」

 そう言うと辰也は頭を抱え込むようにして、を抱きしめた。は此処が日本だという事を思い出して、慌てて「駄目だよ、此処外だよ?」と言い暴れると、辰也はそっと体を離して言った。

「俺のこと、好き?
「え?」
「好きって、言ってよ。…言ってくれるだけで、いいから」
「…うん、好きだよ、辰也」

「…うん」



 は降ってくる辰也の口づけを額で受け止めながら、心の中で小さく怯えていた。それが何から来るものなのか、辰也の熱い手によってかき混ぜられたこの思考力の働かないの頭では、最早考える事ができなかった。