は俺が守らないといけない。そばにいてあげないといけない。ばかりがいつも辛い目に遭う。は何も悪くないのに、いつも悪い大人に狙われてしまう。

 がたがたと、階段が激しい音を立てて揺れた。辰也は息を切らして、ガレージにあるマウンテンバイク目指していた。をあの男より先に迎えにいかなければならない。



***




 ママとパパは、辰也とが大好きよ。だあいすき。

 どこからそんな言葉が生まれてくるのだろう。あいつらの汚い口からか?腐った脳みそからか?辰也には全くもって理解できない論理だった。彼らは気違いだ。狂っている。この自分たちと同じようにあいつらもくるっているのだ。
 酸欠以上に重たい何かが頭を横殴りにしているかのような心地だった。悪い予感がするのだ。何かとてつもなく邪悪なものが、自分たちのすぐそこまで迫ってきている。
 辰也には昔から、何か一つの確信のようなものがあった。そして今それが、明らかな形を伴って胸のうちから吹き出てくるようであった。
 パパはきっといつか、直接的であれ間接的であれ、を殺してしまう。それがもしかしたら、今日かもしれない。
 確信めいたそれは、辰也の走る脚から熱を奪い去っていくようだった。それを考えるだけで、辰也の目から熱い涙が溢れ出てくる。辰也は酸欠で顔を真っ赤にしながら、マウンテンバイクにまたがり地面を蹴った。同時に、ママが狂ったように名前を呼びながらガレージに降りてくる。辰也はその声を振り切るようにして自転車で駆け出した。ペダルを漕ぎながら辰也は泣き出していた。の居る塾まで自転車で20分あれば着く。急がなければ。一刻も早く。早く…。焦るあまり、ペダルを踏みしめる脚の膝が笑った。辰也は唇を噛み締め、ただまっすぐを見据えて無我夢中でペダルを漕いだ。辰也の体重をかけられた自転車が苦しそうに鳴いた。辰也は振り返らない。後ろから聞こえてくる、魔物の叫び声なんて。あいつは魔物だ。女の皮を被った魔物。あのおんなは、あのおとこと組んで俺から何もかもを奪うつもりなのだ。何も知らない哀れな生き物だ。それなのに、自分は何もかも知っていると高をくくって、たった今をこの家から追い出そうとしている。そしてそれは、あのおとこも一緒だ。おとこも何も知らないくせに知っているふりをして、きっと俺を家から追い出そうとするだろう。
 すると辰也の脳裏に、一つのおぞましい記憶が蘇った。そしてそれは辰也を奮い立たせるようにして、辰也の全身に血を送り込んでゆく。自転車を操作する握りこぶしに力が入った。心臓が左胸にアドレナリンに喜びむせび泣いている。もうすぐ終わる。あとすこしで。俺には昨日ようやく手に入れた、唯一の武器があるじゃないか。だから大丈夫。今はなんとしても、あの男がを捕まえにいくまでに、の元に行かなければ。




 その頃、は机に腰掛け、うなだれていた。の頭の中にはぐるぐると、今までのことがメリーゴーランドのように回り続けていた。後悔がモーターとなって、次々と辰也との幸せだった思い出が脳裏に蘇ってくる。
 辰也を、好きになんてならなければよかった。
 そう思えば、熱い涙が目から零れ出てノートに大きな染みをいくつも作った。ぽたぽたと落ちる音が、授業中の静かな教室に響く。誰かが聞くかもしれないなどという心配をする余裕が、今の彼女には無かった。
 くるくると風景が変わっていく。初めてキスをしたのは、夜中まで二人で映画を見て夜更かしをしていた時の事だった。映画を見ている間、辰也がの手を握ったせいでは全く映画に集中できなかった。辰也が初めて自分に覆いかぶさってきた時の期待と胸の高鳴りは今でも鮮明に思い出され、それだけ残酷にの心を焼いた。二人で休日に出かけた公園。遊園地。辰也のバスケを見るのが好きだった。たまにそれを教えてもらうこともあった。汗まみれになった二人でお風呂に入った。二人で眠るときは、一緒に幸せのカーテンに包まれた。
 でももう、終わりだ。両親に決定的瞬間を見られてしまった。彼らに秘密を知られてしまった。
 辰也と自分は、今度こそばらばらにされてしまうだろう。パパはきっと、ものすごく自分に怒るだろう。きっとたくさんなぐって、売女だの、淫乱だの罵ってくるだろう。彼に先日掴まれた乳房が痛んだ。今までのいたずらのレベルでは済まないような事を、きっと彼は強要してくるだろう。辰也と一番したかった事を。辰也が、一番大事に取っておいてくれた事を。それを考えるだけで、は死にたくなった。このまま消えてしまって、死体も何も残らないようにしてしまいたかった。今日は朝から気分が悪い。もう一度トイレに行って吐いてしまいたかったが、今日は何度も授業を中座してしまっている上に、教室の時計によるとあと1分で授業終了を迎えるようだったので、我慢した。隣に座る生徒が遠慮もせずに筆箱をしまい、帰り支度を始めた。がさがさと紙がうごく音を聞きながら、はひたすらのろのろ動く時間に耐えた。
 はやく。はやく、終わって。は一心不乱に、熱い瞼をぎゅっと閉じて祈った。



 授業が終わり塾の入り口へと向かったを待っていたのは、すらりと背の高い、大人の男だった。パパだ。その姿を目にするなり、どくんとの心臓がいやな音を立てた。出入り口には多くの塾生があふれ返っていたが、その男はきょろきょろと誰かを探しているようだった。を探している。はその姿を認めると、ぱっと背を向けて来た道を走り出した。大丈夫。まだ気づかれていない。は元いた教室まで戻ると、呼吸を落ち着かせるようにして胸に手を置き、何度も深呼吸した。携帯を取り出し辰也にメールをしようとも考えたが、今自分がおかれている状況を思い出して思い留まった。
 今パパに会いたくない。とてつもなく嫌な予感がする。は必死に考えた。どうにかしてパパが怪しむ前にこの建物を出て帰りたい。でなければ、きっとパパは誰か先生に尋ねてすぐにこの教室に探しにくるだろう。今はパパに会いたくない。それくらいなら、ママに会った方がいい。家には辰也も居る。辰也はきっと、自分を守ってくれる。…そこまで考えては愕然とした。そんな保証はどこにも無いのに、どうして自分は今の状況でもこんな事が言えるのだろう。もう辰也も面倒くさくなってしまって、自分を見捨てるかもしれない。守ってなど、くれないのかもしれない…。は泣きたくなって、頭をいやいやと振った。

 しばらくはその場に踞っていたが、やがて意を決して立ち上がった。そして、普段使わない非常階段へと向かい、降りていった。ここから降りれば、パパの目に触れる事なく一階の教室へと行くことが出来る。教室の前まで来ると、は中の様子をうかがった。教室にはもはや誰も中に残っていなかった。電気だけが点けられ、不用心に扉も開け放されている。は誰も教室の中に居ないことを確認すると、教室の中に入った。そしてそのまま、一直線に窓へと向かった。窓をロックしていた鍵を明けると、冬の夜の冷たい風が吹き込んで来た。ぶるりと体をふるわせると、はまず持っていた鞄を窓の外に放り投げた。どさりと重たい音をたてて鞄が下の地面に落ちた。この窓はそう高い位置についているわけでもない。これならいけそうだ。は少し迷ったが、すぐに決心して窓の桟をまたいだ。つめたく冷えたフレームがの太ももを刺した。は窓から飛び降りた。着地は成功だ。地面に足の裏が強くぶつかり、骨に衝撃ががんがんと響くようだった。は手早く鞄を拾うと、注意深く建物の裏へと回り、塾の裏口から早足で家を目指した。自分が今何をしているのかは判っている。家に帰ったあと、どんな目にあうか。今のこの自分の行動が、あとでどんな報いの形になって自分の身にふりかかってくるのかも。…それでもは、今パパと、パパの車に乗りたくはなかった。パパがにひどい事をする時はいつも、あの車の中だったから。


!」


 心臓が、とまるかと思った。
 自分の名前を呼ぶものがあった。は弾かれたように名前の呼ぶ方を向いた。まさか、と思う頭に辰也の姿が認められた時、は自らの目から熱い涙がこぼれるのを感じた。
 自転車に乗った辰也が、息を切らしてこちらへ向かって来た。

!よかった、会えて…」
「辰也!」

 は辰也の元へと駆け寄った。辰也は息を切らした様子だったが、の肩をつかんで言った。

「大丈夫?…俺のせいで」
「ちがうよ、辰也!ちがう、」
「パパが此処に来てないか?俺はてっきりもうがあいつと…」
「ちがうの、私パパが塾の玄関まで迎えに来てるところを見ちゃって、私すごく怖くなって、教室の窓から出て来たの!」
「教室の窓から!?怪我は!?」
「大丈夫、大丈夫だよ辰也。だけど、そろそろ気づかれて外に探しにくるかも」
「とりあえず塾から離れよう。、自転車に乗って。俺は走るから」
「え?でも…」
「早く」

 そう言うなり辰也は自転車を降り、にそれに乗るよう促した。有無を言わさない態度には口を噤み、辰也の言う通りにサドルにまたがった。教科書などが入ったたすきがけの鞄は背中の方へと持っていき、ペダルを漕ぐ際に邪魔にならないようにした。辰也はそれを確認すると走り出した。も慌てて後を追う。辰也の足は疲れているとは思わせないほどに速かった。

「どこに行くの?」
「とりあえず家だな」
「どうしよう…私、きっとパパに怒られる…次はどんな目に遭うか、わからないよ!!」

 それを言い終わらないうちには嗚咽を漏らし始めていた。泣きながらペダルを漕ぐを、辰也は息を切らせながらじっと見つめて言った。

「大丈夫だよ、。心配しないで」
「でも…」
「俺がなんとかするよ」
「無理だよ」

 は頭を振ってブレーキを掛けた。「」それを見た辰也が立ち止まると、は堰を切ったようにまくしたてた。

「私、家に帰りたくない!もう家に帰っても、私たちの居場所は無いじゃん!パパもママも、私たちが間違ってるって言ってる!きたないって!私は辰也をたぶらかす売女だって!でも私は辰也がいないともう駄目なのに…もう耐えられないのに!ねえ、なんで私たち兄弟なの!?血もつながってないのに、なんで一緒にいちゃだめなの!?戸籍だけの兄弟なのに!パパもママも、私と辰也を判ってくれない!それどころか、私たちにはひどいことばっかり起こる!もういやだよ、あの家は!もういや、辰也、私はあの家が嫌なの!!」
 ヒステリックに泣き叫ぶを辰、也は抱きしめた。あやすように頭を撫でると、はより一層激しく泣き始めた。
「大丈夫、。大丈夫だから」
「でも…無理、無理だよぉ…」
「俺が何とかする。俺が、切り札を持ってるんだ」
「切り札?」
「そう、切り札」
「何、それ?何するつもり?」
 ふるえる声でが尋ねた。しかし辰也は「本当に大丈夫だから」と言ったきり、何も言わない。

「大丈夫だから…これからも二人で一緒にいれるから」
「そんなの、絶対無理だよ!いったいどうやったら、前までのように居られるの?」
「うそじゃない。うそじゃないよ、。俺がに嘘ついたことなんてあった?」
 を安心させるかのように、辰也は何度もの頭をなでつけ、出来るだけ優しい声色で囁いた。
「そんなの、いっぱいあったじゃん…っ」
「そこは、辰也は嘘ついたこと無かったねって言うとこだろ?」
 辰也が軽く笑ってみせたところで、は一抹の違和感を感じた。今のこの状況にも関わらず、辰也は随分余裕そうに見えた。にとって今この瞬間というのは、この十数年の人生の中でも、最低最悪の瞬間である。家に帰ったら親に罵られ、こうして辰也と笑って会話なんてもう二度と出来ないだろうとまで、考えている。それなのに似たような立場である辰也はそんなに大丈夫だと言い切り、まるでこの先自分たちがどうなるか判っているようだ。が探るような目で辰也を見つめると、辰也はが泣き止んだと捉えたらしく、「さ、帰ろう」と言っての肩を抱いた。ぎこちない動作で自転車を押すと、自転車がぎりぎりと身触りな音を立てた。

「パパが追いつかないうちに…さあ、」

 辰也が優しく背中を押す。その手の感触がねばついたようにいつまでも背中に残ったようで、はひそかに身震いした。隣に立つ、自分と幾分も変わらない年の男の子が、自分が誰よりもよく知っているはずのこの男の子が、何かとんでもない事を考えているような、そんな予感がしたのだった。