には自覚があった。自分は素直な性格をしていて、聞こえのよい返事をいつでもする事が出来て、ことさら年上を立てるタイプだと、自覚していた。年上の男性に対する自分の媚びるような態度が、そういう男性を寄せ付けているということも、そういった自分の性格がかわいげのない事も、いつかそれで痛い目を見るという事も、知っていた。しかし何よりは、男性は総じて「チョロい」のだと、そう感じていた。相手が何歳であろうとも、男を手玉にとるのなんて、簡単だ。それがのたった14年ぽっちの人生で得た世渡りの技術だった。ママは自分を産んでずいぶん長い間一人身だったから、は彼女のためにそうならざるを得なかったのだ。ママが新しい彼氏を連れて来るたびに、はママの幸せを願って精一杯媚びた。私は、あなたの言うことは何でも聞きますよ。聞き分けがいい、聡い子ですよ。…ママにそうありなさいと強要された事はなくとも、彼女は自分で勝手にそれを学び行使する能力を得ていた。ママの新しい彼氏たちはを見てがっかりした様に去っていくばかりだったから、かもしれない。は自分がママの新しい人生にとって邪魔なものになりつつあることを、誰に言われずともわかっていた。 それでもママは何も言わなかった。冷たく当たりもしなかったし、それまで通り、というのは、離婚する前通り、に対する態度は普通一般の母親のそれと何ら変わりはなかった。だからはママが「再婚するかも」という話に、複雑な気持ちになりながらも首を縦に振った。ママがようやく幸せになれるのであれば、私は心配いらない。新しいパパとも、私は必ず仲良くできるから。にはそれまでに得た知識から、そうママに言い放つ事が出来た。 しかしは、あの日、突然連れてこられたきれいなレストランで、スーツを着た彼のパパに出会った。ずいぶん背の高い人だと思ったのを覚えている。 「きみがちゃんかい?ママから話は聞いてるよ」 あのうつくしい男の子を連れた彼は、人のよさそうな笑みを浮かべて手をに差し出した。思ったより随分と若い"パパ"だ。は小さくおどろいた。しかしは、それよりもまず、はそのうつくしい男の子に目をうばわれてしまった。胸のおくに何かが突き抜ける感覚がして、は直感的に「私はこの人を好きになる」と感じていた。はやわらかくそのうつくしい子どもに笑いかけた。そして失礼のないように心の中でざわめく感情は分厚い顔の皮の奥に隠し、迷わず氷室さんの手を両手でとり、握手した。 「こんにちは、氷室さん。ママから話は聞いています。思っていたより若くて、素敵な方でびっくりしました」 よそ行き用の声を出して微笑み、首をかしげる。初めて触る彼の手はつめたかった。固い皮ふの感触が鉄のようだと思った。は氷室パパの顔を見、次に男の子の顔を見た。彼もまたにこりと笑ってみせた。は嬉しくなって、氷室のパパの顔をもう一度見上げて笑ってみせた。 「よろしく。彼は僕の息子の、辰也だよ。ちゃんより一つ年上だから、お兄ちゃんだな。これから仲良くしてやってくれ」 「よろしく」 「タツヤくん。よろしく」 「よろしく。ああ、何だか初めて出会った気がしないよ」 願ってもない言葉だった。は嬉しさを隠さずうなずいた。「そう、そうだね!私も同じことを思ってたよ!」そのまま二人、丸いテーブルに隣り合って座った。足をぶらぶらとさせながら、二人は夢中でお互いのことを話し合った。一方でママと氷室のパパは、子供たちがあっという間に打ち解けたのを意外に思ったようだったけれど、何よりだと言わんばかりに安心したそぶりを見せた。子供にごねられたら困ると思ったのだろう。赤の他人が家族になるために、どれほどの関門をくぐりぬけなければならないのか。とりあえず、第一関門は突破だと彼らは考えたわけだ。第一回目となったその食事会は、大成功に終わった。帰り際、は辰也に言われて連絡先を交換した。ママはその光景を見ておどろき、そしてとても嬉しそうに笑った。久しぶりに見るその表情に、は心から安心したものだった。そこからはトントン拍子で事が進み、気付けば4人で氷室のパパが用意した家に住んでいた、というわけだった。 辰也と一つ屋根の下の毎日はとても刺激的だった。手や身体がふと当たるたびに胸をときめかせたり、辰也に会うために彼の部屋の前の廊下を意味もなくもう一往復してみたり、バスケをしにいくと言う辰也についていったり、二人で夜更かししてホラームービーを見てぎゃーぎゃーと騒いだり、両親に怒られる時は二人そろってどなり声に震え上がったりした。好きな人と毎日一緒に居るってこんなにすばらしいんだ。はよろこびで胸がうち震えた。にとってのそれまで異性経験といえば、たまに引き合わされる20も30も上の男性に気に入られるよう媚びるだけだったのだ。私はママとあなたの間の関係にとってお邪魔じゃありませんよ。仲良くできますよ。何なら何でもしますよ。そういうことを無邪気に態度で示すこと、それがにとっての異性経験だった。そのせいで、同い年や学校で一緒になるような世代の男子のことを考えるこころの余裕は何処を探してもいなかったのだ。 しかし、今はどうだ。同世代とは思えないくらい大人びて、天使のようにうつくしい顔立ちをした、これ以上なく優しくて完璧な男の子が自分と居てくれるのだ。はすぐに辰也に夢中になった。の仕事であった氷室パパのご機嫌取りのことなど、の恋愛にとろけた頭から完全にすっぽ抜けていた。驚くことに、相手も似たような境遇の持ち主で、自分と全く同じ感情を持っているということを知ったのは、二人で誰もいないリビングで初めてキスした時だった。あの時こそ、自分は死んでもいい、なんて心から思った瞬間だった。 辰也とは隙さえあれば一緒にいるようになった。次第に、お互いに寄りかかるようになった。坂を転げるように共依存と呼ばれる状態に至るまで、数ヶ月とかからなかった。 原因はあった。が辰也に全てをよりかかるようになった一番の原因は、そとから来た。それは隕石のように、家の外から全くの理不尽を伴って、の頭上めがけて降ってきたのだ。 事の発端は、皮肉なことにの自業自得だった。 辰也はバスケの腕前のみならず、頭の出来がよかった。見てくれや運動神経のみでなく、成績もとてもよかったのだ。辰也の持つ遺伝子の何もかもが、のそれと違った。ママは何より学校の成績を気にした。辰也の点数と、の点数。いつのテストでも、あきらかに差は瞭然としていた。ママはきっと、自分の血が氷室のそれに負けることがどうしても認められなかったのだ。特にの数学の点数は陰惨たる結果で、ママは、いくら自分が言ってきかせてもが辰也と遊び惚けて勉強をしないと悟ると、パパの友人が経営しているという小さな個人塾に彼女を入学させた。週に二回、は3時間たっぷり拘束されることになった。辰也も当然のように自分もその塾へ行きたいとママに訴え出たが、当然却下された。は何度も両親の決定にあらがい、時には暴力的な言葉すらも両親に吐いたが、所詮は子ども、結局言いつけのまま塾に嫌々通い出した。この自分は今から地獄に送り込まれるのだとすら当初は思った。辰也は送り迎えをすると言ってくれたのが、にとってのただひとつの救いだった。 一番最初によろしくと握手した時の、優しそうな人だと安心したのもつかの間。パパの友人だという塾長は、パパの友人という割には不似合いなくらい年を取っており、でっぷりと肥え太っていて、恐ろしく厳しい男性だった。彼は友人の子どもだろうと何だろうとすぐに叱りとばした。子どもの成績のためなら塾長は体罰も辞さない構えだった。彼の仕事ぶりをパパから聞いたママは、その塾長の姿勢を理由にを塾に入れたのだろう。しっかりと、この子のサボり癖を矯正してください。初めてその塾に顔を出した日、ママはそう塾長に言い、笑顔で何かの書類にサインした。あれはもしかしたら「常識の範囲内で体罰を施されても、我が家は不服申し立てをいたしません」といった内容の書類だったのかもしれない。ふてくされてそっぽを向いていた自分がおろかなせいで、それを見逃してしまったのも、また自業自得なのだが。 は、学校でテストが実施されるたびにおびえるようになった。必ずそのテストを塾に持って行かなければならないからである。塾長は、が目標点より低い点を取るとの頬を打った。初めて打たれた時は、何が起こったかわからないほどであった。ただ頬が熱く燃え、衝撃で頭はくらくらするし、痛みに思考が完全に止まったは泣くばかりであった。やっとの思いで迎えた8時。塾が終わるとほぼ同時に、重い足を引きずりながら控え室に居る辰也のもとへ急いだ。辰也の、のうつろな目と腫れた頬を見た時の顔を、はおそらく一生忘れないと思う。 「それ、何…なにがあった?」 「…ぶたれた。点数が悪いからって」 「だれに!?」 「先生に」 「あいつ…!!なんで…こんな、女の子の頬に…」 「いたい、いたいよ、辰也…」 うえーんと堰切ったように泣き出すの背中をさすった後、辰也は完全に理性を忘れた目で教室へと続く廊下の奥をにらんだ。その時の顔ときたら、は今でも思い出すたびに息を飲む。辰也の目は見た事もないほどの怒りをたたえて、その瞳はぎらぎらとひかっていた。 「あいつ、殺してやる…!」 辰也が扉を蹴り開けて塾長の部屋に行こうとするのを、は初めてやめてと叫んだ。辰也の腕にすがりつき、全体重をかけては泣き叫んだ。 「やめて、やめてよお。辰也、返り討ちにされちゃうよ。怪我させたら、私たち家族が訴えられちゃうよ!」 「殺してやる、殺してやる、あんなやつ!をこんな傷つけて!女の子なのに!たかが塾の先生のくせに!」 「だめ、だめ…っ!!」 「何で止めるんだよ!」 は大きく叫んだ。 「そんなことしたら、辰也がいなくなる!!絶対いなくならないで、辰也!!」 辰也が息をのむ音が聞こえるようだった。彼は振り返り、の肩を強くつかんだ。「…ごめん」冷静を取り戻した彼の沈痛な声が、控え室にむなしく響いた。そのあと、は辰也と一緒にもう少しだけ泣いた。 はその日帰ってすぐに親に泣きついたが、親はそれは自業自得だから、しっかり指導してもらいなさいと言って全く聞く耳をもたなかった。辰也と一緒に訴えたりもしたが、両親は聞く耳をもたなかった。あなたがサボるから悪いの。その一点張りだった。そのフラストレーションを、は全て辰也に消化してもらった。キスして。ハグして。頭をなでて。何でもして。私のために、何でも。何でもしてよ、辰也。毎日のように辰也に慰めてもらって、甘やかしてもらって、痛む頬にキスしてもらって、涙を舐めとってもらった。頬をぶたれた回数が多くなれば多くなる程、辰也は自分にべったりになって依存の度合いはどんどん深くなっていった。リビングで長い間ひっついて離れない異様な兄妹を見て、ぎょっとする両親に出くわす回数も増えて行った。塾に行く時間が長くなればなるほど、はどんどんと辰也に傾倒し、依存していった。 「これからも、何かされたら俺に言って」 「うん」 「俺がその塾に行けたらいいのに…」 辰也は何度もその言葉を繰り返したが、その願いは叶わないままだった。ただ、二人で抱き合って眠る日数が増えた。 辰也とて何もしなかったわけではなかった。塾長に直接会って「近頃妹が頬を腫らして帰って来るのですが」と話したり、塾に乗り込み、強引に授業に参加したこともあったが、それらは両親の二人に対する疑惑を深くするだけであった。塾長とパパは密に連絡を取り合っているようだった。辰也がそんな風に勝手な行動をする度に、パパは余計なことをするな、恥ずかしいと辰也を叱った。 最初低く設定された目標点は、がそれをクリアするたびに少しずつ高くつりあげられていった。は辰也との時間を守るために、塾に詰め込まれる6時間だけは死にものぐるいで勉強した。頬を打たれた日は辰也に思い切り甘えて、キスしてもらって慰めてもらった。ママもパパもの腫れた頬を見ても何も言わなかった。辰也はそんな両親のことを初めて「異常だ」と言った。もしかしたらあの時から、氷室の家はおかしくなっていたのかもしれない。 最終的に目標点は90点までつりあげられ、止まった。はとうとうその目標点を維持するのが難しくなった。死にもの狂いで勉強した結果、85点。塾長が椅子から立ち上がる音だけで、はびくびくと震えた。やめてください。痛いのは、やめてください。体罰は、やめてください。は必死で命乞いをした。まさに塾長の大きなぶっとい手のひらはギロチンだった。あれで殴られるだけで、は身体ごとふっとばされるのだ。顔はやめてください。女の子なんです。お願いです。そう言った瞬間だった。塾長のいやしい目がぎらりと光った。 「じゃあ、身体の見えないところにしよう」 ジーンズの上から叩いてもあまり効果はないといって、塾長はにジーンズを脱ぐように指示した。嫌だというと、それなら顔に打つと脅された。それなら親に言うとが脅すと、やってみろ、契約書のサインがあるから家族諸共訴えてやる、法律は自分の味方だ、と言われた。恐怖で思考が麻痺し正常な判断ができなかったは、悲しいことにその言葉を真に受けた。痛みの恐怖云々よりも、この男の前で下着を晒す事が何より屈辱だった。は泣きながらジーンズを下すと、塾長はにやりと笑って、一度大きくばちーん!との尻を下着の上からひっぱたいた。焼けるような痛みに息が思わず止まる。その音をききながら、は二度と赤点を取るものか、と心に固く誓ったのだった。おお、赤くなったな。でかくて、いい尻だな。やわらかい。また来なさい。そんな塾長の嬉しそうな声を、は意識的にシャットダウンした。もう何も聞かない。何も言わない。今日限りで辞めてやる、こんな所。 控え室に居た辰也に、いつものようにすぐさまはとびついた。逃げるようにぼろアパートを飛び出したは、辰也に訴えた。 「もう、私はあそこに行きたくない!やめてやる!」 「父さんに話そう。それしかない。あんな腐ったくそ野郎のもとに、がもう二度と行く必要なんかない!」 「でも、話したら先生が…どうなるか、わかんない」 「構うもんか!が言わないなら俺が言う。出来るなら俺があいつをぶっ殺したいくらいだ。俺は絶対にから離れていかないから。あいつが何してきたって、俺とは引き離せないから、大丈夫だよ。とにかく、まともに聞いてくれるかはわからないけど…言ってみよう。母さんじゃだめだ、父さんに話そう。その方がいい」 二人は家に帰ってすぐにパパに話があると訴えた。ママがいると話がややこしくなるから、まずパパに話したい。はそう言った。ママは不審な目を向けたが、は構わず強く言って出た。辰也もその援護をした。パパ、聞いてやってくれ。するとパパは、それじゃあ二人で話ししようか、とを書斎に案内した。辰也ですら滅多に入れない、パパの仕事部屋である。辰也はについて行こうとしたが、パパはと二人で話をすると言ってそれを許さなかった。 「お前は先に寝ておいで。もう11時半だ。明日も学校だろう」 「でも…」 「パパはとちょっとゆっくり話をしたいんだ。お前じゃなくて、から話を聞きたいんだ」 「…わかったよ、父さん」 辰也は大人しく言う事を聞いて、部屋に戻った。パパはそれを見届けてから、と二人で彼の書斎に向かった。パパは椅子に座り、は予備の小さくてこぎれいな簡易ベッドに座った。両親はいつも別の部屋にある大きなベッドで寝ているが、これはパパが仕事で徹夜をする時などに使うものらしかった。 「、話してみてごらん」 はそれを事細かに、出来るだけ現実に忠実に、そして同情を煽るべく、あちらの理不尽さを強調してパパに語り出した。ねえ、ひどいんだよ。点数が1点でも低かったら頬をぶたれるの。それも思いっきり。私だけじゃない、他の生徒だって皆塾長に怯えている。一度反抗的な態度をとった男の子はお腹をけり飛ばされていた。あそこは異常だ。…話しているうちに、は今日起こった事をパパに話そうか悩んだ。辰也には話すことができたが、それでも強い羞恥の気持ちがについて回った。今度は、自分の父親に塾長の前でジーンズを脱いでみせた事を話さなければならないのだ。もう一度、あの時の気持ちを思い出さなければならない。思うだけで目頭が熱くなった。言いようもない恥ずかしさと屈辱感がの喉を縛った。果たして、自分がされた事を彼に話せるだろうか。それも、最近新しくパパになったばかりの、それまでは全くの他人であった彼に。 話したらどうなる?これから彼は、自分をどう見るようになる?は年上の男性が怖くなっていた。はもう知っている。おとなの男が、いかに強いのか。おそろしいのか。ずるいのか。 「そして、私やめてってお願いしたの。そしたら…」 「…何?」 「…」 「言ってごらん、」 「えっと…」 「何かされたのかい?言ってごらん。、こわがらなくていいから」 「うん…」 「大丈夫だ、。パパは何を言われてもおどろかないよ。大丈夫だよ、」 そう言ってほほえむ彼の顔はおだやかだった。それは少なくとも、何となく、信じてもいい、と傷ついたに思わせてくれる表情だった。何か大人にすがりたいにとって、彼の笑顔は甘い蜜だった。いつだって何かにすがりたいはみるみる間に吸い寄せられてゆく。このパパだって、おとななのだ。強くて、大きいのだ。きっと、大丈夫。しんじてみよう。 は小さく、ぽつぽつと語り出した。と同時に、熱い涙が目尻からこぼれて落ちた。パパは身じろぎした。そして落ちていた小さな毛布を、何故だか自分の腹の上にのせた。 「ジーパンを脱げって…言われ、て」 「…」 「で、その…脱いだ、ら、お尻を思い切り叩かれて…」 「…」 「…」 「…」 「…」 「いたくて…なんか、色々言われて…」 「…うん」 「すぐジーパンはいて…辰也と帰ってきた、んだけど…」 「…そうか」 「嫌って、言ったんだけど、親もこれは了承してるとか言われて…もし親に言って訴訟とか、になったら、勝つのはこっちだ、って言われて…」 「そうか。わかった」 パパは沈痛な声で頷くと、立ち上がった。そしての目線に合うようにベッドの前で膝をつくと、「今まですまなかった」と言った。 「すまなかった、気付いてあげられなくて。明日にでも退塾の手続きを取ろう。そんな人間のクズのような奴に、大切なを預けられない」 頭のてっぺんから、力が抜けていくようだった。わかってもらえた。は、わなわなと震える口元を隠さずにパパに抱きついた。パパの胸に顔を押しつけはむせび泣いた。ありがとうと言うことすら出来ない程に、は嗚咽していた。よしよしと撫でるパパの手つきには完全に安心しきり、身を預けていた。初めて嗅いだパパは、おろしたてのスーツの匂いのような匂いがした。 「、叩かれたところは大丈夫なのかい?」 「うん、多分。叩かれたのは一回だけだったし…」 「そうか。…ちょっと、パパが見てあげようか」 「え?」 は顔を上げた。 「ちょっと、見せてごらん」 「え、でも…」 「大丈夫だから」 「い、いや…」 「大丈夫。僕はのパパだよ?見せてごらん。痛いことしようって訳じゃないんだから」注射に連れて行くために小さい子をなだめすかすような、気持ちの悪い甘い声だった。 「い、いい。大丈夫だから…」 「でも誰かに見てもらわないと。ひどく打たれたんなら、薬も塗らないといけないだろう?一人じゃ塗りにくいだろうし、パパが塗ってあげる」 「いい、いい。そんなの。辰也に塗ってもら…」 「辰也!?また辰也か。、お前辰也と何かあるのか?最近おかしいだろう!」 パパはいきなり人の変わったように叫んだ。きんと耳が鳴るのもおかまいなしに、パパはの肩をひっつかみ身体を離した。その時は見たくないものを目にしてしまったのだ。パパの足の付け根が、キスをしている辰也みたいに"興奮"している。え?え?と状況についていかない頭で、は先ほどとはまた違った涙を流し始めたが、パパはお構いなしに続けた。 「最近お前たちおかしいぞ!いいか、こういう年頃の兄妹っていうのはなぁ、もうちょっとお互い距離を取りあうものなんだよ!ところがお前たちときたらなんだ!四六始終べたべたして。男と女なのに…お前たちはおかしい!異常だ!」 「え…な、なんで」 「今だって、尻に薬を辰也に塗ってもらうだって?信じられん!普通はそんな兄妹はありえない!しかも最近お前たちは兄妹になったばかりだろう!!お前たちは異常だ!そういうものは普通親にやってもらうものなんだ!いいから言うことを聞きなさい!」 「いたっ、」 そう言うとパパはを強引に後ろへ向かせ、強引にのジーパンに手をかけた。いやだ!!いやだ!!!!はいよいよ激しく泣き叫んだが、誰も助けには来ない。すると黙りなさい、と後ろから怒号が飛んできた。 (どうして!?どうして!?なんで、なんで…)混乱する脳は熱を持ち始めた。何も考えられない。ただただパパの言うなりになって、ぐちゃぐちゃの思考のまま耐えるしかなかった。 「いいか、、辰也には絶対に言うな。言ったらそのときは…」 その後のことはよく覚えていない。指が"そこ"に入ってくる時に痛かった事だけは、なんとなく覚えている。 ただ書斎を出る頃には、ぼんやりと感じる下半身の違和感と、その強い脅しの言葉だけの脳には刷り込まれていた。 辰也はの部屋で待っていたが、とてもそのことを彼に伝えることはできなかった。辰也は何も言わないに根掘り葉掘り聞き出そうとしたが、がやめてと一言呟くと黙った。その日は結局別々の部屋で眠った。 次の日、はパパが塾に退塾の旨を伝える電話をしているのを、冷たく淀んだ瞳で見ていた。は学校を休み、辰也だけが学校へ行った。ママにおそらく本当の理由を知られることはもう二度とないだろう。理由の一部のみ、つまり体罰部分のみを聞き届けた彼女は、あんな事があった後でもを何としても成績をキープするために塾に行き続けてほしいらしかった。両親の相談の結果、次は個人塾ではなく、完全にシステム化された大きな塾に、は入れられることになった。週に一回だけ、は大教室で授業を聞いて帰りさえすればよくなった。しかし、の心は決して軽くなりはしなかった。 あれからパパは、たまににいたずらするようになった。「辰也には絶対に言うな」この呪文を唱えながら、彼はに手をのばした。あの週二回の塾からの恐怖を手放す代わりに、は醜悪で下劣な化け物を家の中に招き入れることになったのだ。辰也にはまだ言えていない。辰也に何度尋ねられても、この事だけは彼に言うことができなかった。だからは、自分の出来る限りパパとの接点を減らすことしか出来なかった。ママは、そんな自分の態度を、皆がこれだけ協力しているのに新しい家にまだ馴染めないのかとなじった。家の中で、辰也の側以外に安らげる場所は、なくなっていった。 それがが15歳、辰也が16歳になったばかりのことだった。 |