"あれ、ちゃんと動いたか?"
 "もちろん、動いたよ。ちゃんと録れた。貸してもらえて助かったよ。ありがとう"
 "別にいつでもいいから、持って来られるときに学校に持って来てくれよ。"
 カチカチと、辰也は携帯のキーをいじった。

 "ありがとう、あれはきっと来週にでも返すよ。"

 夜が降りてくる。午前一時、氷室家は寝静まっていた。辰也は電気も消さずに、椅子に片足だけ上げて行儀悪く座っていた。少し物思いに耽ったあと、再びかちかちと手元にある携帯をいじる。
「ちっ…くそ」
 辰也は鬱陶しげにボタンを連打した。また携帯がフリーズした。舌打ちまじりに一度携帯の電源を落とすと、ふっと煙が消えるようにして携帯の液晶は暗くなった。電源を切るときですらもてきぱきと動かないのだ、アメリカの安物の携帯は。アメリカの携帯はどんな会社の機種でもたいがい質が悪い。もう一度電源ボタンを押し、リブートする。じんわりと明るくなった画面には、welcomeという文字が浮かび上がった。テキストメッセージ、一件。からだった。新着を知らせるアイコンを選択し、目に悪いと判っていながらも液晶に顔を少し近づけ、目を細めた。モノクロの液晶に浮かんだ文字は見えづらいのだ。ましてや、辰也たちには「まだ子供だから」という理由で、一番安い携帯を買い与えられていたから尚更だった。しかし、これでとテキストメッセージでちまちまと意思伝達するには十分である。彼女からの返事には、"あと30分くらいしたら行く"と書いてあった。

 ボタンを押してつくるメッセージより、二人は声が聞ける電話が好きだった。しかし二人の間には、夜は電話を掛けてはいけないというルールがあった。料金明細と一緒に電話会社から送られて来る通話明細で、全ての通話記録が出てしまうからである。夜中みんなが寝静まった後、自分たち兄妹がこそこそと電話をかけあっているのが親に知れてしまっては、ますます不審感を深めてしまう。最近二人で何かしらと行動しすぎたせいで、両親から訝しげな目で見られていることに、辰也はとっくの昔に気付いていた。たまに、ママが警告を飛ばしてくる。
「辰也、最近ちょっとと仲良すぎなあい?」
 そうかな。これが"普通"だよ。辰也がきれいに微笑めば、ママは目線を少し外して言葉を飲み込んでくれるのだ。それが何を意味しているのかを、辰也はきちんと理解していた。自分の容姿に感謝した瞬間でもあった。だから余計、ママはと自分の関係が目に余るのだと、辰也は考えていた。彼女には自覚がないのかもしれないが。自分の息子に嫉妬してみせる父親については言わずもがなだ。彼にとって、がその"対象"なのだ。「家族」が聞いて呆れる。こんなものの何が「家族」なのだ。ママとパパがこの家はいい家だ、という話をする度に、辰也は嘲笑を禁じ得ない。そして辰也の顔が二人には微笑みとして映るのだから滑稽でしかたがなかった。
 両親が自分との関係について夜な夜な話し合っていることも、辰也は知っていた。きっと今も、二人はあの大きなベッドの上で何か話しあっているのだろう。お互い本心をひたかくしにして。馬鹿だなあ。ママの恨めしげな目を思い出しては、辰也は心のどこかで血の通っていない愚鈍なママを馬鹿にしていた。なにせ彼女は、真の敵が自らのすぐ側に居るということも気付かない。

 それゆえ、部屋と部屋の行き来は、今は少しし辛い状況にあった。が辰也の部屋に来るには、もしくは辰也がの部屋に行くには、両親の寝室の前の廊下を歩く必要があるのだ。はやく二人になりたい。ふたりきりになれる時間は、朝が来るまでの数時間しかないのだ。家では親が、外では周囲の好奇の目がふたりの間を引き裂くのだ。あと30分か…。長い長い時間だ。辰也は携帯をにぎりしめ、膝に頭を乗せ大きなためいきをついた。30分も待つなんて、もったいない。30分もあったらにたくさんキスして、たくさん好きだとささやいて、ベッドの上でじゃれ合うことができるのに。

 のことを考えるだけで、甘く神経がしびれて、よろこびで指の先までふるえてしまうくらい、辰也はにのめりこんでいた。彼にとって本当の意味で、初恋だった。ある日突然、彼女はまさに空から降ってきた、奇跡の女の子だった。その日、辰也は母親と離婚したパパに連れられて、ロスの日本人街にある高級寿司レストランに行った。そこで、同じく父親と離婚したママに連れられたと出会ったのだ。一目ぼれに近かった。陳腐な表現にすれば、まさに稲妻が脳裏に光ったような感覚だったのだ。14歳のと、15歳の辰也は、一目見てお互いにお互いをすきだと思ったのだと、辰也はあとで知った。全く予期していないその出会いは、まさに青天の霹靂だった。
 そこから二人の関係が進むのははやかった。パパとママは二人に本当の兄妹だと思って仲良くしなさいと告げたが、辰也もも当然その気は微塵もなかった。パパとママの、その存在自体が二人の仲を急接近させた。障害があるほど恋愛は燃え上がるなんて、なんてありがちな、チープで陳腐な話だろうと以前の辰也なら笑い飛ばしていただろう。しかしはたして二人は、まるで磁石でも身体にくっついているかのように家で身を寄せ合い、お互いに傷を舐めあった。そのうちに、傷を舐めあう事そのものに快楽が生まれてきて、二人はその快楽に夢中になった。二人のひみつの時間。ひみつの場所。ひみつの思い出。この家はそれらでいっぱいだった。
 例えば、風呂場。あそこでがしくしくと泣いていたのは、もう3ヶ月も前のことだった。パパに"おしおき"をされたが、泣きながらからだを洗うのを、辰也は手伝ってあげた。二人でシャワーに打たれながら、辰也とはお互いに身体を洗いあい、その後は二人で裸で抱きあって眠った。そしていつものように、ママが起こしに来る前に、嫌々朝早くに起き上がって、は部屋に戻らなければいけなかった。
 例えば、玄関。ママに塾の成績が悪い、お金の無駄だと叱られてしまったが、家出すると言ってきかなかったことがあった。当然本気ではないと知りながらも、辰也はを家の玄関を出てすぐのところでをつかまえ、そのまま玄関の前まで連れ戻し、そのまま家の外で二人で長い時間話したことがあった。あの時のの言葉を、まだ覚えている。この家には、辰也の側以外に私の場所がない。でも、辰也の側にいると、ママもパパもこわくなる。パパはママにかくれて、私に"おしおき"をしたり、暴力をふるう。ママは何故か、辰也と一緒にいる私をみっともない女だと言う。は静かに泣いていた。は外ではころころと笑っているのに、この家の中だと泣いてばかりだ。辰也はがつむぐ言葉にひとつひとつ頷きながら、とからだを寄せ合ってじっとしていた。ママとパパがこの光景を見ていませんように、と願いながら。
 辰也の部屋もそうだった。甘くて、ほんの少しいやらしい香りのする思い出がたくさんあった。初めてのキスも此処でだった。勿論も部屋も、また二人のひみつがつまっている。しかし辰也とに直接的な肉体関係はまだなかった。が怖がるといけない。は平気だと言うが、きっと心の何処かで"男"を恐れている。自分のものでの身体をつき刺すだなんてそんな、野蛮な目にはまだあわせるにはいかなかった。を狙う輩はたくさんいる。外には、パパの友人だといういかがわしい塾の先生。家の中には、自分の息子にすら嫉妬する愚かなパパと、自分の娘に嫉妬する馬鹿なママがいる。辰也はそのおそろしい大人たちからを守らなければならなかった。何本もに向かって伸びてくる手を、一つ一つ切り裂いてやらなければ気が済まなかった。そうやって一切の不安をとりのぞいた後、と自分は結ばれるべきなのだ。
 しかし、たかが16歳のこどもに出来ることなどしれている。辰也はそれが歯がゆかったし、腹立たしかった。

 彼は、はやく大人になりたかった。はやく、おおきくて強い大人になりたかった。






 音もなく、ドアが開かれた。はじかれるようにしてドアを見れば、愛しい彼女がそこに立っていた。
(来ちゃった)
 口パクでそう告げると、は音を立てないように慎重に扉を閉めた。
「足音、聞こえた?」
 そう言いながら近づいて来る彼女は、部屋に入ってからも足音に気をつかっているようだった。辰也は微笑んで、の真似をしてささやき声で答えた。
「大丈夫だよ。ほら、こっちにおいで」
「うん」
 腕を広げると、がとびこんできた。シャンプーのいいにおいがする。抱きとめると、心地よい重みが胸に広がった。ああ、幸せだ。辰也は高鳴る胸を抑えて破顔した。
「今日も、誰も部屋に来なかったかい?」
「うん、パパもママも来なかった」
「よかった」
「でもこれからあの二人が私の部屋に来たらどうしよう」
「俺の部屋で話してたって言えばいいさ」
「へえ、何を話してたって?」
「俺たちだけの内緒の話」
 ちゅ、とキスをするとはもっと、とねだった。かわいくて仕方なくて、何度もキスをしてやると、は嬉しそうに笑った。
 を、どれだけ甘やかしても足りないと辰也は思った。どろどろに甘やかして、自分抜きでは立ち上がれないほどに、どろどろに溶かしてしまいたかった。辰也はをベッドに導き、自分の着ていたシャツに手をかけた。そのまま脱ぎ捨てて、下にはいていたズボンもとりはらい、パンツ一枚だけの姿になった。それをじっと見ていたはうっとりとした表情で、辰也の鎖骨に手をすべらせた。
「この鎖骨、好きなんだぁ。あと辰也の固いおっぱいも、しっかり割れてるお腹もね」
はどこもかしこも柔らかいけどね。ふふ、このお腹はなに?プリンでもくっつけてるの?」
 の服をとりはらって、やわらかいおなかをつねると、はくすぐったそうに笑った。辰也はこの顔を見るのが好きだった。つねったそこをがぶっと甘噛みすると、はいやだあ、と言いながら辰也の頭を優しくなでた。
「いいの。明日からダイエットするから」
「うん、はいつもそれ言ってるね。まだカップケーキ二個あるから」
「うー意地悪」
「ねえ、電気消していい?」
「ん」
 電気を消すと、視界はゼロになる。辰也とはシーツの海にとびこんだ。辰也はシーツの中にもぐって、のからだのいたる所をやさしく触って、キスをした。ひたい。まぶた。鼻。頬。くちびる。くび。鎖骨。胸。お腹。背中。パンツに隠されたお尻。ふともも。ふくらはぎ。辰也の大きな手が触れた場所がじんわりとあたたかくなっていく。するすると手が滑ると、そこをあたたかい膜のようなものが覆ってゆく。はそれだけで眠くなってしまったようで、辰也の頭を抱え込んだまま、うとうととシーツにくるまってまどろみ始めた。の乳房の下でからだから沸きたつ匂いをかぐと、それだけでいやらしい気持ちになった。
「なんか今やらしいこと考えたでしょ」
「ふふ、わかる?」
「たつやのからだがぽかぽかしてきた」
「身体は正直だね。でも、もあたたかくなってきたよ」
「おんなじだね。でも、足に何かが当たってるんですけど」
「おっと、これは失礼」
 ちょうど足先に膨張した部分が当たってしまっていたらしかった。おどけてみせるが、それでも特にそれを動かすような事はしなかった。「男なんだから仕方ないだろ?」はくすりと笑ってそのまままぶたを閉じた。彼女はもう限界らしい。辰也は背伸びをするように頭をシーツから出した。そしての手をとり、自分のそれとしっかり指を絡ませた。肌と肌が触れている場所がじんわりとあたたかい。二人で寝るベッドは、どうしてこうも心地よいのか。裸で抱きあって眠ると、どうしてこんなに穏やかな気持ちになるのだろうか。辰也は目をつむった。夢の中で、ふたりは朝までの短い時間をむさぼるのだ。その中では何の悲しみも痛みも、しがらみもない。その中で、ふたりは完全に自由だった。星降る夜がふたりの間に降りてくる。静かな夜のマントが、ふたりをつつんで、ゆりかごを揺らす。

「おやすみ、
「うん…」

 このままふたりで、真夜中の海をわたりたい。




















 次の朝、二人はママの金切り声で目が覚めた。辰也の部屋はいつのまにか開いていて、ママはベッドの前で何かを大声でわめいていた。辰也とは飛び起きたあと、お互いの姿を確認してあ、と顔を見合わせた。ママの顔は真っ青だった。パパもすぐに辰也の部屋に来た。二人の時間は止まってしまって、ベッドの中でつないだ手すらも離すことができなかった。ただ呆然とベッドの中からパパとママの絶望した顔をながめるだけだった。汚らわしい、とママは叫んだ。両親はを見ていた。おそらく二人ともの未発達の胸を見ていた。彼らは自分たちではなく、の胸の二つの大きな黒いシミを見ているのだと、辰也は思った。