とん、とん。
 辰也は規則正しく、それでいて小気味よいリズムでボールをついた。手首に正しい感覚と順序で、ほんの少しだけ力を入れれば、ボールはわざわざ見ずとも思い通りに彼の手の中で緩急自由自在に跳ねた。彼の足下で丸い形に描かれた白いラインがボールを受け止めている。腰を低く落としたまま、周囲を取り囲む肩の張った、筋肉隆々の大きな男2人を、少しも怖じ気ついた素振りなど一切見せずに冷たい瞳で見据えた。辰也の唇は、かすかに開いていた。そこからほこりっぽい空気を静かに吸い込み、吐き出して呼吸をする。エンジンを、かける。男は辰也の美しいまなこではなく、手をついたり離れたりするボールをしきりに見つめていた。彼らは何としてもそれを奪いたかったが、辰也にあまりに隙が見いだせない今、攻めあぐねていた。じりじりとタンクトップの男二人は辰也との距離をつめた。辰也は涼しげな顔で球をついている。


 じゃりっ、という軽快な足音と共に辰也が急に動いた。とんとん、とん!ボールはまるで生きているみたいに、辰也のボールから跳ね出した。辰也は後ろに一旦退いたあと、ボールを高くついた。ばむ、と目にも止まらぬ速さで、まるで見当違いの方向に飛び出していくボール。あ、と男たちの声が聞こえたようだった。そして辰也がそれを片手で受け取り、かろやかに彼らを抜きさって走り出す頃には、周囲の歓声と驚きの声が、タツヤ!タツヤ!という応援の声がコートに響き渡っていた。はその中で固唾を飲んで見守っていた。これで点が入ったわけではないのだ。火神大我が相手ゴールの下で辰也を待ち構えていた。彼は腰を辰也の様に落とし、かかとを上げ、獣のような目をして彼の到着を待っていた。辰也はばんばんと急くようにドリブルをしてゴール下を目指していく。まっすぐ大我を見つめて、飛び出していく。辰也はほんの少しだけ、嬉しそうに笑っていた。ばんばん、永遠に続いて行くように思えたその音は、誰よりの予想よりも早く止まった。辰也は突如立ち止まり、流れるような動作でボールを放ったのだ。大我がそれを待ち望んでいたかのように手を伸ばし、思い切り飛んだ。何よりも高くみえたその大きなジャンプは、彼の精一杯伸ばした指の先をボールに届けた。にはその指がボールの表面でちりりと音を立てたのが見えたようであった。皆がその瞬間、息を飲んだ。そしてその中心で、辰也は目を大きく見開き、ボールの行く末を見守っていた。心臓の音が高鳴り、今はそれしか聞こえない。ボールがリングの上に乗り、一瞬止まった。そして、ゆっくりと、リングの中心に吸い込まれて行った。歓声が響く。とん、とネットをくぐり抜けまっすぐに落ちたボールを見届け、辰也が一瞬歯を見せた。大我がくそ、と小さく呟き走り出す。その様子を見届けたあと、はふう、と肩の力を抜いた。今日はどちらが勝つのだろうか。は腕に巻かれた腕時計をちらりと見た。もう5時57分だ。おそらく今の辰也の頭から門限という言葉は吹き飛んでいるだろう。ついでに、今日は二人で帰りにクーパーズのカップケーキを食べるという約束も。これは門限までバスケコースだな、とは憂鬱なため息を一つついた。ばーか、と心の中で一つつけくわえる。ちょうどその時大我が放った反撃のシュートが決まり、周りがわっと湧いた。



「悪かったね、
 そう言って申し訳なさそうに謝る辰也を従え、はクーパーズで甘ったるいカップケーキをむさぼっていた。現在時刻、6時半。に定められた門限も、6時半。それなのに、はクーパーズに居た。結局あの後、辰也は6時15分ギリギリまでバスケを楽しみ、大我と楽しいお喋りを済ませたあと、に「カップケーキ…どうしようか」とのたまったので彼女は怒り心頭だった。「よし、これからクーパーズ行こう。俺が買ってあげるから、ね?好きなだけ買ってあげるから」ほらほら、と辰也の、そののご機嫌を取るのに必死な態度も何となく腹立たしい。一個6ドルの、店で一番高いカップケーキを4種類全種類オーダーしてトレイに乗せ、仏頂面でさっさと立ち去る。後ろで辰也が苦笑しながら会計を済ませた。はそのトレイを店の中に設けてある席に持って行った。少し汚い。先客の残したゴミが気になったが、この店は掃除が行き届いていない事が多い上に今は席を変える時間も気力も惜しい。は構わず席につき、先客の残した紙くずをつまんで床に落とした。辰也がまもなく来て、の向かいに座る。の膨れっ面を見て、まだふくれてるのか、と肩をすくめてみせた。
「辰也も食べるでしょ」
「いや俺は…」
「食、べ、る、で、しょ」
「…はい」
 は一番目当てのチョコレートに毒々しいピンクのアイシングがかかったそれをつまみ、食べはじめた。めちゃくちゃに甘い味が口の中に広がる。時間を見たらもう6時45分だった。夕食のことが気にかかったが、は今、何としてもこのカップケーキを食べなければいけなかった。だから同じことを辰也に強要した。こんな時間になったのは辰也がそもそもバスケを2ゲームもしたからである。1ゲーム目はともかく、2ゲーム目はやる必要がなかった、特に他に予定がある今日は。大我にちょっと強めに誘われて、まんまと誘惑に負けたのは辰也なのである。さらに昨日、「明日はバスケが終わったらクーパーズのカップケーキを食べたい」と言い出したのもまた辰也の方である。それなのに人を待たせて、なんて奴だ。は正面で星やハートの形をしたカラフルなパウダーが乗ったパンケーキを食べる辰也をにらみつけた。
「そう怒らないでくれよ」
「今日カップケーキ食べたいって言ったの、辰也だからね。しかも、バスケは早めに切り上げて、食べようって言ってたの、辰也だからね」
「お詫びに一番良いカップケーキを買ってあげたろ?これに免じて許してくれ。ね?」
「ふん」
 がっつくように食べたせいで、水を吸った甘い塊が喉に絡まった。辰也はそれを微笑ましげに見つめている。
「カップケーキ、おいしい?」
「…おいしい」
「それはよかった」
 はちらりとトレイの上を見た。さっきは腹が立って勢いで6ドルのものばかり4つも注文してしまった。カップケーキのサイズは握りこぶしほどもある。これら全部を今、とても食べきれない。いや、やろうと思えば二人でなら食べきれるが、そうなると、二人とも夕食が全く食べれなくなってしまうだろう。は「持ち帰り用の袋もらってくる」と席を立とうとした。が、辰也がそれを遮った。
「俺が行くよ。食べてて」
 辰也はそれを言うなり歩いて行ってしまうものだから、は中途半端に立ち上がった身体を再び、椅子の上に戻す。ついでに、ナプキンの上に置かれた辰也のカップケーキを拝借し、一かじりした。やはり、クーパーズのカップケーキは病的なまでに甘い。しかし、そこがいいのだ。この合成的な甘さを、は何より気に入っていた。


 クーパーズを出ると、外はすっかり暗くなっていた。ぴゅうと吹き付ける風は冷たく、思わずはぶるりと身震いした。ロスアンゼルスの冬は暖かいと言われているが、あれは嘘だ。は今日のジャケットに、暗い紫色をしたこの薄手のダウンを選んだことを後悔した。もっと暖かいものを選ぶべきだった。辰也のように。
「はい、手」
 そう言って差し出された手に、は迷いもなく指をからめた。辰也の手は冷たかったが、それでも手をつなげば暖かくなる。二人の手の平の内側に閉じ込められた空間が熱を持ち始める。人気のない道を、月夜の下、二人は静かに歩いた。がさりがさり、と辰也のもう片方の手に下げられた、カップケーキの袋の音を聞きながら、二人は静かに歩いていた。家までどれくらいかかるだろう。10分というところか。門限1時間オーバーだなぁ、ごめんね、。辰也が呟いた。はううん、と首を振った。
「残ったカップケーキ、また明日食べようか」
「うん」
「ああ、のせいで俺の財布すっからかんだよ。来月まであと一週間…明日からどうやって生活していこうかなぁ」
「それは辰也が悪い。どうせ賭けバスケで小遣い稼ぐんでしょ」
「賭けバスケにも、初期費用が必要なんだよ。そもそも金が無ければ何も賭けられないだろ?」
 その時ちくりと罪悪感がの心を刺した。
「…じゃあそれ明日は私が出してあげる。何ドル?」
「いや、明日の分はジョージにでも言って貸してもらうさ。そう言えばこの前10ドル貸したの、忘れてたよ」
「そう?じゃあ、そうして」
、」
 辰也がいきなり足を止めた。何だろう、とは辰也の顔を見上げる。辰也は同じ年頃の、肌の色がちがう友人たちと比べると、やはり少し線が細く、華奢に見えた。それでもよりは随分大きい。月の光を後ろから浴びる辰也は美しく、天使様のようだともは思った。辰也はの手を引き、顔を近づけた。はその瞬間彼が何をしようとしているのかが判って、反射的にまぶたを閉じた。唇にぷにっとした何かが当たって、その中からぬめぬめしたものが這い出て来た。それはの唇を確かめるように何度も舐めた。カップケーキのバターとミルクと砂糖の味だ。もそれに答えるようにしてそれを唇で優しく食んだ。辰也のキスは気持ちいい。ぬるくて甘くて、いいにおいがする。どうやったらこんな人が生まれるんだろう。は辰也の胸に手を預け、しばらくキスにふけった。地面に立つ足が棒になったみたいだった。唾液がぬるぬると二人の唇の間で滑る。
 はキスをしている瞬間が大好きだった。この瞬間、世界の誰よりも幸福であると自覚できた。何度してもしたりなくて、は一日の間でしょっちゅうキスを強請る事がある。辰也はそれに必ず答えてくれた。辰也はキスの終わりに、音を立てての唇をやさしく吸った。いとおしそうに、壊れやすいものを大事に扱うように、やさしく吸った。

「もうそろそろ、さすがに心配されているだろうから。帰ろうか」
「…うん」

 ああ、時間が止まればいいのに。

 悲しくなって、はそう小さくこぼした。辰也が困ったような顔をしての頭を肩にそっと押し付けた。うん。小さな子をあやすように頭を撫でると、は小さく震えた。

「俺が、守ってあげるからね。心配しなくて、いいから」

 辰也はおまじないを唱えるみたいにして、そう囁いた。はうんうんと頷き、顔を上げた。
「俺が出来るだけ、ずっとそばに居てあげる」
「うん」
「今日も夜ベッドの中からメールするから」
「うん」
「だから」
「うん」
「何かあったら言って」
「…うん」
「…そんなこと、させないけど」

 それは、重たく、沈んだ声だった。もう一度二人は短くキスをして、歩き始める。二人分の靴音が壁に反射しては夜の闇に吸収されてゆく。ふたりで歩く長い長い道は、どこまでも冷たく伸びていた。






 二人は、ほぼ同時にある一軒の家の前に止まった。は胸の上に手を置いて、大きく深呼吸をした。のこの建物に入る前の儀式のようなものだ。辰也はそれを横目で見ながら、ぎゅっとの手を握りしめた。も強く握り返す。それは、切実な願いを込めたものだった。辰也がポケットから鍵を出し、ドアへ続く短く小さな階段を進んだ。辰也に手を引かれ、も重たい足取りで歩き出す。がちゃりと音がして、オレンジ色をした暖気が身体中をつつんだ。

「ただいま」

 至極明るい声をして辰也は中に足を踏み入れた。その瞬間に二人の手が離れる。中から、怒ったような声を出して飛び出してくるものがあった。

「あらあ、二人遅かったじゃないの。何処へ行ってたの?連絡もよこさないで…パパもう食べはじめちゃったわよ!」
「ごめん、ママ。バスケをしてたら遅くなっちゃって。ね、?」
「うん。ごめんね、ママ」

 ママ、と呼ばれた彼女は二人を一瞥すると、「ご飯出来てるから、早く来なさい」と言ってリビングに戻ってしまった。
 辰也はいつものように肩をすくめる。

「夕食、頑張って食べよう」
「そうだね」

 しかし、しばらく二人は玄関から動かなかった。二人は何も言わずに、リビングに続く扉がゆっくりと閉まって行くのを、ぴかぴかとひかるそのまなこで、いつまでもじっと見つめていた。いつまでも。