十月八日

 なんだか今日は心地いい夢を見ていた気がする。私はじりじりと鳴り続ける目覚まし時計を止め、気持ちよく伸び上がった。母親が朝食に呼ぶ声がする。ただよってきたいい匂いに誘われるように少し急かされるようにして、私はベッドから降りた。口の周りがすうすうして、その時にようやく自分の口まわりが濡れていることに気付いた。寝ている間によだれが垂れてしまったようだ。いい歳して恥ずかしい。
 朝食を食べたあと、猫のひっかき傷だらけの制靴をひっかけて学校に行った。すっきりと明るい教室内は、いつものように活気にあふれている。窓が開けられていて、涼しい朝の風が吹き込んで来ていた。席につきしばらく携帯をいじっていると、火神くんと黒子くんが教室に入って来た。今日も彼らは朝練だったらしかった。おはよう、と挨拶をすると、彼らは私の前と斜め後ろにそれぞれ座った。今日も朝練?おお。毎日大変だね。まぁーな、でも楽しいからいいんだよ。火神くんは本当にバスケ馬鹿ね。そうだね。バスケくらい英語のテストが出来たらよかったのにね。そう茶化せば、二人は笑った。その時、私は大事なことを思い出して、黒子くんに向き直った。本のことを謝るためだ。
 私、黒子くんに謝らないといけないことがあるんだけど。そう改まった口調で切り出すと、黒子くんは少しびっくりしたような顔をして私を見た。いきなり、どうしたんですか?あのさ、借りてた本、なくしちゃったんだ。それで、新しいのを買って弁償しようとおもうんだけど…本当に、ごめんなさい。私が頭を下げると、黒子くんは、いいんですよそんなもの、顔をあげてください、と言ってくれた。黒子くんという人は、一体どこまで優しいのだろう。その優しさが苦しいくらいだよ。横から、おまえ借りたモンなくしたのかよ、という火神くんの一人言が聞こえてきた。今の私に非常に突き刺さる言葉だ。はいその通りでございます…。私は顔をあげられなくて、そのまま火神くんの机に額をつけた。

 いや本当に大丈夫なんで、顔をあげてください。本なんて大した値段じゃないんですから。
 いやあれ、ハードカバーだったもん!絶対2500円くらいするもん。そんなの私たちにとったら大金じゃん。火神くんじゃあるまいし…。
 ちょ、俺を勝手に金持ちキャラにすんなよ!
 それじゃあこうしましょう、今度これ原作の映画が公開されますから、さんのおごりで一緒に映画を見に行きましょう。それでチャラです。
 そんなのでいいの…?
 はい、僕それが丁度見たかったので。
 じゃあ私前売り券買っておく!
 はい、よろしくお願いします。
 なあ、あのさ、その映画俺も行っていいか?
 いいですけど、火神くんがちゃんとあの映画を理解できるとは、ちょっと思えませんが…。
 …お前今日は一段と腹立つな。

 顔をあげると、黒子くんは少し笑った。さん、おでこが赤くなっていますよ。
 そう言われたところで、ちょうどチャイムが鳴った。先生が教室に入って来て、私たちのいつも通りの授業が始まった。お前手、怪我してんな。授業中、小声の火神くんに言われて右手の甲を見た。うん、そうなんだよ。セイバーにひっかかれてさ。せ、セイバー?猫の名前。弟が捨て猫ひろってきてさ、最近マンション裏で内緒で買ってるんだ。ちなみに名付けたの私じゃないからね。誤解しないで。へえ、猫か。そうそう、遊んでたら引っ掻かれちゃってさー。
 私は右手の甲の傷に手をやろうとして、目を見開いた。傷がどこにもない。
 あれ?
 私の右手の甲にあったセイバーのひっかき傷は、あとかたもなく消えてしまった。あれ?私は火神くんと顔を見合わせた。どうしたんだ、。いやあの、あれ?さっきまであったんだけど、セイバーの傷が無くなっててさ。
 はあ?何言ってんだお前。
 本当なんだって!此処に傷があったのに、本当に消えちゃっ、




 ピピピピピ。




 そこで、ようやく私は目覚めた。

 …あれ?

 ぼんやりと身を起こしてあたりを見回す。何の代わり映えもしない、いつも通りの私の部屋の光景がひろがっていた。目覚ましの電子音がやけに大きく響いている。

 私、学校に行かなかったっけ。


 私はまぎれもなく自分の部屋に居た。腫れる脳を横たえ、私はしばらく呆然とした。ノートパソコンの乗った机、椅子。だらしなく広がったカーペットに、何も乗っていないテーブルが見える。…今、私は目覚めたのか。ようやく事態が飲み込めて、私はのそのそと起き上がった。黒子くんに本のことを許してもらったのも夢。それから、黒子くんと火神くんと映画に行こうという話をしたのも、火神くんとセイバーの引っかき傷について話したのも、その傷が消えたのも、夢か。私は目をこすったあと、大きなあくびまじりにベッドを降りた。いつものようにトイレに行き、用を足す。そして、手を洗ったところで私は気付いた。右手の甲の傷が無い。かさぶたも無く、文字通り跡形も無く傷が消えてしまっていた。私は愕然として母親の待つ台所に向かった。母親はいつも通り、魔法のように朝食を用意してみせた。私は席につき、それにありつこうと手を合わせた。その時、リビングに誰かが入って来る。おはよう。あり得ないその声に、私は目を見開いた。私に声を掛けたのは父親だった。驚いて声も出ない私をおかしく思ったのか、父親は何だその顔は、と言って笑った。父親は一週間の単身赴任ではなかったか。私の記憶では、先週単身赴任に出かけたばかりで、彼は家の中に居ないはずである。あまりに驚いたものだから、私は言うべき言葉を失ってしまった。父親は何食わぬ顔をして私の正面に座り、朝食を食べ始めた。

 父さん。
 なんだ?
 父さんは、先週から単身赴任じゃないの?何で此処に居るの?
 何で此処に居るの、だって?失礼なことを言うやつだなあ。何言ってるんだ、此処のところ単身赴任なんか行ってないぞ。
 いやでも、先週から父さん単身赴任で居なかったじゃん。
 いや、パパは先週から居たけど?
 ったら寝ぼけてるのね。
 ははは、そうだな。夢の続きでも見てるのか?
 いや、寝ぼけてないって!

 食卓が静まり返った。お互いに何とも言えない顔をして、私たちはしばらく顔を見合わせた。心臓が不協和音を立てはじめていた。話が微妙に噛み合ない。弟に聞けばわかるはずだと彼の所在を聞いたが、彼は先に学校に出てしまったらしい。私はこの話題を彼らの前でするのはやめる事にして朝食を取ったあと、逃げるように自室に戻った。ありえない、ありえない、ありえない!そうだ、と私は部屋を見渡した。黒子くんの本と私のシュシュは相変わらず行方不明のままだ。他人の物をなくしたというのに、私は何故かその事実にひどく安心した。制服に着替え、鞄を持って玄関に向かった。もう行くの?行ってらっしゃい。母親と父親の声がする。私はそれにぎこちなく返事をし、玄関口で制靴を履こうと屈んで、…そして、異変に気付いた。制靴を持つ手が止まる。

 きれいだ。制靴が、きれいなのだ。傷がない。

 母さん。私は震える声でキッチンに戻り、たずねた。

 制靴、新しいの買ってくれたの?
 母親はさっきより、もっと変な顔をした。
 何言ってるの?入学してからずっとあの靴でしょう。

 私は絶句した。

 何、これ。何これ何これ。

 ひざが震えるのを、感じた。

 私は、家を飛び出すようにして玄関をくぐった。マンションのエレベーターを降り、セイバーの所へ向かった。セイバーは居るはずだ。大きな白のプラスチックのトレーに、薄いピンクの毛布が敷いてある。その上に、真っ白いセイバーは居るはずなのだ!!
 私はマンションの裏を回り、セイバーの居るはずの場所に駆けつけた。セイバーの居るはずの場所には、誰が捨てたのかわからない飲み物の缶が、置いてあるだけだった。白くて小さいセイバーは、いなくなっていた。
 マンションの管理人が見つけて処分してしまったのだろうか。あり得る。しかしその場合、何も掲示せずにセイバーを連れていってしまう事はあり得るのだろうか。マンションの管理人なら注意や勧告を此処に置くはずである。私は震える手で携帯を操作した。

 もしもし、母さん?
 うん。どうしたの?
 セイバー、何処行ったの?
 セイバー?何それ?
 セイバーだよ。白い猫。前から、マンションの裏で内緒で飼っていたでしょう…
 猫?そんなもの知らないわよ。猫なんか飼ってるって管理人さんに知られたら大変よ!管理人さんに怒られるから、元あった場所に戻しておきなさい!
 …
 ちょっと?
 ……
 ちゃん?聞いてるの?
 うん…
 今日は一体、どうしたの?起きてからあなたずっと変よ。
 うん…ごめん。寝ぼけてるかも。忘れて、ごめんね。わたし、学校、行くね…

 無理矢理電話を切ると、しばらく私はその場に立ち尽くした。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。
 どんどんどんと私の心臓が肋骨を叩く。とにかく、学校に行かないと。私は足を引きずるようにして、その場を立ち去った。通り過ぎてゆく風景の中で私は懸命に白い子猫を探したが、ついに見つける事はなかった。

 いつもより少し遅くに学校に着くと、私は席について黒子くんを待った。
 何がともあれ、黒子くんに本のことを謝らなければならない。そして、彼が確かに私に本を貸したことを、確認しなければならない。だから私は、一刻も早く黒子くんに会いたかった。私は頭を抱えて机の上でうつむいた。頭ががんがんと痛い。割れそうだ。あると思っていたものがない。この事実が、私の心を乱していた。黒子くんに、本を貸してないって言われてしまったら、どうしよう。単身赴任に行ったと思っていた父親は実はずっと家に居て、拾って大事にしていると思っていたセイバーも居ない。したがって、セイバーにつけられた傷もない。セイバーは私の夢の産物だったとでもいうのか。あれだけリアルだったのに?セイバーを抱いたとき、感じた猫の身体のわずかな硬直も、セイバーがしゅるりと膝を通り抜けるときの心地よい感触も、引っかかれたり噛まれたりしたあの痛覚も、ぼろぼろになった制靴の傷も、全てが私にとって現実だったのだ。それなのに、今全てがなかったことになっている。自分以外の全てが、すっかり変わってしまった。私一人を置き去りにして、皆が変わってしまった…。私はそんな風に、考えたくないのであった。
 もし、私だけが変わっていたら?私の頭は、おかしくなってしまったの?夢を現実だと思い込んでいたの?私の見ていた夢は、実は現実だったの?
 どくどくと、心臓がはやいだ。思考はにぶくぼやけるのに、脳の何処かが興奮している。何かの信号を、どこかへと向けて発している。それが何処かからの警告のように思えて、鳥肌が立った。机の上で一人、冷たい手をこすりあわせながら私は二人の到着を待った。まもなく教室の引き戸が開く音がした。黒子くんと火神くんだ。二人はいつも通りの喧噪ぶりで、何か言い合いながら教室に入ってきた。二人はまっすぐこちらへ向かってくる。私は震えそうになる喉を抑え、思い切って黒子くん!と叫んだ。大きい瞳をさらにまるくして、黒子くんは、何ですか?と首をかしげた。

 私、黒子くんに謝らないといけないことがあるんだけど…。
 いきなり、どうしたんですか?
 あの、さ…。借りてた本、なくしちゃったんだ。それで、新しいのを買って弁償しようとおもうんだけど…本当に、ご、ごめんね。
 いや大丈夫ですよ。本なんて大した値段じゃないんですから。

 その言葉を聞いた瞬間、氷のようなものが背中をすべっていった。嫌な予感がする。

 でもあれ…高かったし。ね、ねだんは覚えてないけど、確か2000円以上したよー…ね?私弁償するよ。
 おまえ、人に借りたモンなくしたのかよ。

 火神くんの軽口が、いやに神経にさわった。私はとても今、そんな軽口を流せる気分じゃない。暗くなった私の表情を見てか、わりぃと火神くんはすぐに小さく謝った。

 いえ、大丈夫ですよ。気にしないでください。
 でも…。
 それじゃあこうしましょう、今度これ原作の映画が公開されますから、さんのおごりで一緒に映画を見に行きませんか。それでチャラです。
 え…。
 僕それが丁度見たかったんですが…は見たくありませんか?
 あ、いや、そんなことないよ。うん。本すごく楽しかったし…。
 何だか今日、様子がおかしいですよ。何かありましたか?
 いやいや、本当に大丈夫。本当に、大丈夫だよ、うん。ごめん、ちょっと寝ぼけてて、あんまり最近眠れなくて…映画だよね。私じゃあ、前売り券買っておくね、あはは。
 本当に大丈夫ですか?大丈夫ならいいんですけど。はい、よろしくお願いします。
 …なあ、あのさ、その映画俺も行っていいか?
 いいですけど、火神くんがちゃんとあの映画を理解できるとは、ちょっと思えませんが…。
 …お前今日は一段と腹立つな。

 火神くんと黒子くんの声が脳の中をかき混ぜた。カーテンが降りてくる時みたいに、急に気分が悪くなり、私はそれから会話に参加することなく前を向いて机の上でうずくまった。もう何も考えられない。もう、何も考えたくない。きもちわるい。早く家にかえりたい…セイバーに、会いたい。私は家の玄関を思い浮かべた。玄関で靴を脱いで、廊下を進む。一番最初のドアが、私の部屋のドアだ。廊下の右側についている、私の部屋の入り口。ドアノブを引き下げ、かちゃりという軽い音と共に私の部屋へのドアが開く。そこまで来たら、私のベッドはもうそこだ。そうしたら、私は制服を全て脱ぎ捨て、とにかく横になろう。気持ちを落ち着けて、考えをまとめるのはその後だ。ベッドに横になると、小さなちゃぶ台と、私のノートパソコンが置いてある大きな机が見えるにちがいない。私の部屋。何もかもが私の制御の下にある、ただ一つの空間。何故か非現実的な感じがするその絵は、私の脳裏にこびりついていた。なにせ、今日は朝からひどくつかれているのだ。

 一時間目の授業が始まる頃には、気分の悪さは頂点に達していた。顔色が真っ青だったらしく、授業を始めて5分しか経っていなかったにも関わらず、数学の教師は私が保健室に行くのをゆるしてくれた。一人で保健室に行こうと席を立つと、じゃあ俺がつれていきます、と行って火神くんも席を立った。正直、誰もついてきてほしくなかった私は、いやいや大丈夫だよ!と失礼なくらいはっきりと断ったが、数学の教師は火神くんについていってやるように命じた。
 火神くんの顔を見るだけで、背中があわだった。"俺とやりたい?"そう言って笑った彼のニヒルな笑いも、低くかすれた声も、現実じゃなかっただなんて嘘だ。じゃなければ、あんな夢見たりするもんか。いや、あれは、確かに現実にあったことなのだ。私と火神くんは教室を出て、保健室までのそりのそりと歩きだした。廊下の冷たいコンクリートの壁に右手を預けながら歩いていると、火神くんは私の左手をつかみ、引っ張った。その瞬間ときたら、本当に息がとまるかと思った。びくんと大げさにのけぞってみせた私を、火神くんは少し傷ついたような表情で見た。失礼なことをしてしまったのだと気付くのに、数秒を要した。

 いやだったか?
 ごめん、ちょっと気分本当に悪くて、びっくりしただけだから…い、いやじゃないよ、ごめん…
 本当にお前大丈夫か?すぐ連れてってやるからな。もうちょい我慢しろよ

 なんで、そんなにやさしい声をしているの?やめてよ。やめてよ…。
 私はどんな顔をしていいのかわからなくて、うつむいた。
 彼のその声は、聞いたことのないくらい、優しくて甘い声だった。出来るなら、いつものようにぶっきらぼうな言い方をしてほしかった。この目の前の男は、本当に私の知っている火神くんなのだろうか。うたがわしい。どこにも確証なんてない。これもまた、夢なのかもしれない。次はいつどんな災難が飛んで来るのか、判ったものじゃない。こわい。この現実がおそろしい。はやく家に帰って、布団にくるまりたい…。
 私はおとなしく火神くんに手を引かれ、保健室まで連れて行かれた。保健室には丁度誰もおらず、火神くんはベッドが空いてるからそこで寝とけ、と言って私をそこに寝かせた。火神くんはベッドの掛け布団を私にかけると、私の額を触った。今度は変な声が出そうだった。熱はあんま無ぇみてーだけど。火神くんは確かめるように自分の額を触って、あろうことか私の頬を指でいとおしむように触った。緊張で身体がかたまる。しかし火神くんはそれを気にする事もなく、一応冷えピタ持って来てやるから、と言ってカーテンの向こうに消えてしまった。こんな風に甲斐甲斐しく世話を焼くような男だったか。彼は。どくどくと心臓がいやな音を立てて私の肋骨をたたいた。火神くんはまもなく戻って来て、私の前髪をかきあげ額に冷えピタを貼った。

 本当に大丈夫か?女子なんだから身体は大事にしろよ。
 うん…ありがと、火神くん。
 なんか今日様子が変だなと思ってたら、身体の調子悪かったんだな。気付けねーで悪かったな。
 い、いいよ…大丈夫だから、本当に。そんな謝らないでよ。ほんとに…。
 だってよー…まあ、いーや。此処でしっかり休めよ。次の時間も無理せず、てか今日は早めに帰った方がいいだろ?俺、先生に言っといてやるよ。じゃあ俺、行くな。
 ありがと。…おやすみ。
 おやすみ。

 火神くんは私の頭をなでると、カーテンの奥へと消えてしまった。彼の大きな背中がカーテンの後ろに消えて行くのを見届けたあと、私は目をつむった。とても眠れるような気分じゃなかった。まぶたを閉じると、胸の奥底で何かがどろどろと音を立ててのたうちまわっていた。どろどろぐつぐつと、妙な焦燥感と不安が沸き立つのだ。何か嫌な予感がする。でもそれが結局何なのかは、つかめないままだった。ああ、今はとりあえず眠ろう。この頭を整理するのも、体力を回復してからでも遅くないだろう。そうに決まってる。私が無理矢理目を瞑り、そんな事を考えていた時のことだった。私は耳に、確かに人間の湿った息づかいを感じた。低い嗤い声と共に。

「俺とやりたい?」

 私は絶叫した。そして、布団を掴みいつまでも震えていた。いつまでも、いつまでも。その言葉を発した張本人---火神くんは、それ以上なにもしてこようとはしなかった。それだけ言うと、布団の向こうがわで気配を消してしまったのだ。私はしばらく布団の中で身体をおりまげ、震えていた。保健室の先生が帰って来るまで何分だったかはわからない。その時間、永遠とも呼ぶべき、永い永い時間を、私はベッドの上で情けなくも虚空に怯えて縮こまっていた。

 結局授業は3時間目まで休み、残りは出席した。早退したかったが、テスト前というこの時期がどうしても私にそれをゆるさなかった。火神くんとも黒子くんとも、その日は会話は出来るだけ避けた。授業中何度も火神くんの様子を盗み見たが、彼には何の変化もないようだった。私が何度も観察していることにすら全く気付いていないようだった。
 授業が終わったらさっさと帰ろう。それがいい。私はホームルームの後、終了の号令と共に鞄を掴み教室から早々と出た。一階の靴箱まで来ると、私はいつものように自分のネームタグがつけられている棚をあけ、制靴を取り出した。それを地面にやや乱雑に放り投げ、右足を突っ込む。「さん」帰路を急ぐ私に声をかけるものがあった。私がある異変に気付いたのは、それとほぼ同時だった。

「今日はもう帰るんですか?」
「あ…」
 傷が、ある。
 私の右足をすでに飲み込んだ、履き古した制靴は、買って半年経っていないとは思えないほどに、何かでひっかいたような無数の細かい傷がついていた。気持ちが悪いほどに見覚えがある。強い目眩がして脳が揺れた。
「この本、どうでしたか?」
 私は、靴から目線を引きはがし、無言の私に話しかけ続ける彼の顔をおそるおそる見た。首が思い通りに動かず、内部でぎしぎしとアルミ人形のような音を立てた。黒子くんが、返した覚えのない本を片手に佇んでいた。身体が突如がくがくぶるぶると震え出した。
「しっかり読んでいただけたようで、それっておもしろかったってことですよね?よかったです」
「あ…え…」
「僕大好きですから、この本」
「その…なんでそれ持ってるの…わたし、それ返したっけ…??」
「え?これですか?今朝、さんに返してもらったからですけど」
「わたし、そんなもの黒子くんに返してないよ…」
「いえ、昨日の夜、僕は確かにさんから本を受け取りましたよ」
 ぞわり。背筋を何か冷たいものが走った。
「そんな…そんなこと私してないよ…」
 その時、ちくちくと何かが刺すような痛覚が右手の甲に広がった。丁度猫の爪でひっかいたような細かい傷がそこにあった。口の中が急速に乾いてゆく。私は黒子くんを再び見た。嫌だと思っても、見るしかなかった。
「何言ってるんですか。昨日僕は、貴女の家にお邪魔したんですよ。この本は、その時受け取りました」
「えっ?」
「覚えてないんですか?」
 怪訝そうに黒子くんは言った。まるで信じられない、私の頭がおかしい、くるってるとでも言いたげだった。

「ああそうだ。肝心の用事を思い出しました。これ、あの時に間違って持って帰ってしまったようだったので、返しにきました」

 そう言って黒子くんが差し出したものは、私があれだけ探したガラスのついたシュシュだった。もう私は我慢出来なかった。私は靴に無理矢理両足を突っ込むと、走り出した。学校の玄関を抜けて、駅へ。まるで誰かに追われているかのように、走って走って、走りまくった。私は黒子くんが追いかけてきていないか度々後ろを確認した。私がようやく落ち着けたのは、自宅に帰ってからだった。食事の用意をしていた母親の目に、息を切らせて家の玄関で立ち尽くす私はどう映ったのだろう。私は母親の質問を振り切り私の部屋に駆け込むと、制服が皺になるのも構わずにベッドに飛び込んだ。
 目を瞑って私は布団を頭から被り、体のどこかから生まれてくる震えにひたすら耐えた。もう何も見たくない。頭が割れそうだ。もう学校へ行きたくない。何が起こってるのかわからない。怖い。なんで黒子くんが私の本とシュシュを持ってるの?いつ私はあれを彼に渡したの?なんでセイバーは居なくなったの?なのに、手に傷があるの?助けて、助けて、誰か…
 手のひらがいやな汗でじわりと滲み、布団へとしみ込んだ。重く痛む脳みその芯からぐらぐらして、ベッドの上で縮こまっているだけなのに揺れに酔って吐きそうなくらいだった。
 心臓が耳元でばくばくとうるさい。もう私は何も見たくなかった。ひどく疲れていた。親とも話したくなかった。しばらく私一人だけの、この安全な絶対領域の中に、ひとりぼっちでいたかった。そうでないと、自分がどうにかなってしまいそうな気がした。予測などではなく、確固たる確信が、私の心にあった。























 何かの違和感を感じて、私はまどろみから目覚めた。そして、今自分が何をしていたかを知る。
 いつの間にか眠っていたようだった。はっと目を開けると、部屋の中は真っ暗だった。寝てしまっていたようだった。慌てて枕元の目覚まし時計を確認すると、午前2時半を回ったところだった。
 着たままの制服のスカートがくしゃりと足と足の間で不快にまとわりついている。私は身を起こそうとして、そしてようやく気づいたのだった。

 部屋の中に誰かが突っ立っていることに。





「僕、気づいたんです」





 僕はベッドの上で、身を起こしたまま固まるに近づいてゆきました。は奇妙な、それでいて小さな叫び声を漏らしたかと思うと、まるで化け物でも見るような目で僕を見上げていました。暗闇の中で、彼女のぬれた瞳だけきらきらと輝いていて、星のようでした。しかし僕はそれに気づかないふりをして歩いてゆきます。一歩、一歩。僕の着る制服がするすると音を立てていきます。の荒い息の音と、僕の足音、衣擦れ。この静かな世界で、僕たちは二人きりなのです。僕はとうとうのベッドの前にたどり着きました。静かにを見おろすと、は目を見開いたままがくがくと震えていました。多分きっと、どうしてこんなところに僕が居るんだろうと不思議でならないんでしょう。彼女はきっと、僕がこの部屋に来るのが初めてではないことすら、今は知らないのでしょう。

「何が僕の邪魔をするのか」
「…」
「どうしてうまくいかないのか」

 僕は、彼女の枕もとにあった目覚まし時計をひっつかむと、床にたたきつけました。鈍い音がしましたが、それでも溜飲が降りない僕は右足でしっかりとその小さな目覚まし時計を踏み抜きました。プラスチックが割れて、文字盤と本体が完全にばらばらになり、電池が弾けてベッドの奥まで転げていったのを見て、僕はたまらず笑みました。

「これでいい」
「な、なに…」
「これでいいんです。これで、ようやく。現実なんて、忘れてしまいましょう。朝なんてもうずっと来なくていいんです。二人でずっとここにいましょう」

 僕はのベッドに片膝を乗せ、の頭を撫でました。はびくりと跳ねて僕から遠ざかろうとしましたが、僕が腕をひっつかんで阻みました。そしての体温を感じた時、僕の体中が言いようの無い幸福感に満たされました。が今この手元に。僕はこれからとなんでもできる。この世界には二人だけ。何も僕を阻まない。世界の何も、僕の邪魔をすることができない。
 明日は永遠に来ない。火神くんとの未来は消滅した。僕の醜い嫉妬心も昇華して、今はただひたすらに純粋な独占欲に身を突き動かすだけ。
 僕は笑いました。笑わずに入られませんでした。そしての体をベッドに押し付けてのしかかると、それからは好きなように、やりたいようにしました。僕は幸せでした。初めて触れるほどの大きな幸せでした。彼女の肌に触るたびに指が震えて、瞼からは涙があふれるくらいに、僕は幸せでした。彼女は最初こそ泣き叫んでいましたが、とうとう泣き止み、何も言わなくなりました。




 夜は明けません。目覚まし時計が鳴らない、そんな素晴らしい世界に、僕はいつまでもと二人でいるのです。