十月七日

 私は一人、教室に居た。夕日が差し込むこの世界は、ひどく赤くて、辺りが見え辛いほどだった。おい、。きょろきょろと辺りを見回す私に、声をかけるものがあった。これは、火神くんの声だ。火神くんの席の方を見ると、黒子くんが座っていた。。黒子くんは、火神くんの声で喋った。火神くんの声で呼び捨てされると、変な気分になった。お前手、怪我してんな。そう言って、黒子くんは私の手を指差した。セイバーのつけたひっかき傷跡の事を言っているらしい。ああ、これね。ちょっとね。傷跡を見ると、薄皮が張っていた。大丈夫だよ。平気。小さな傷だから。じゃあちょっと、見せてください。黒子くんの声が途中で変化した。これは、黒子くんの声だ。私は驚いて、黒子くんを見たけれど、彼は手を差し出して微笑んでいた。彼は手を取ると、舌でべろんとその傷を舐め上げた。まさかそう来られるとは思っていなくて、びっくりするのと同時に、ぴりぴりと痛覚が刺激を受けた。痛いですか。黒子くんはたずねた。うん、ちょっと痛いから…ちょっと、離して。当然離してもらえるものと思ってその言葉を口にしたが、彼は離してくれなかった。嫌です。彼は、そう答えた。
 もっと近づいていいですか。…何で?もっと近くであなたを見たいからです。黒子くんはそう言って、私の返事も待たずに椅子ごとこちらに近づいて来た。ぎぎ、ぎーと椅子の足が床にこすれる音が、いつまでもしつこく教室に響いた。黒子くんは口元の微笑みは崩さずに、両手で私の傷ついた手を覆って何度も撫でた。そんな彼を、私は気持ち悪い、と思った。黒子くんはしばらく無言で私の手を撫でたあと、昨日はかわいかったです。と呟いた。え?私が聞き返すと、黒子くんが、だから、きのうは、かわいかったです。とゆっくりと言い返した。夢の中特有の脈絡の無さを感じ取り、私は何も言わずに黙っていることにした。昨日、僕は本当に幸せでした。時間を忘れました。夢みたいな時間でした。黒子くんはしとしとと小さな子に語りかけるように、ゆっくりとそう言った。喫茶店で一緒にブラウニーをつついた光景が脳裏によみがえる。が、彼が意味しているものは、違うもののようだった。

 あんなに、が求めてきてくれて、僕は嬉しかったです。初めてだったのに、を痛めずにすることができて嬉しかったけれど、本当は少し痛がってほしかったです。けれど、次は、火神くんに邪魔されずに、最初から全部僕のものにしたい。最初火神くんとしてるのを見た時、僕は気持ち悪くて悲しくて泣いてしまったくらいなんですよ。思わず吐いてしまいました。胸が引き裂かれる思いって、こういう事なのだとうちひしがれました。
 黒子くんの手がぽかぽかと暖かくなってきている事に気付いた。汗ばむ手の感触まで、リアルだ。私は息を飲んだ。黒子くんが、セイバーの爪痕に爪を立てた。いたっ、と手を反射的に引き抜こうとしたが、ものすごい力で手を掴まれて叶わなかった。いつのまにか私の手を掴む手が大きくなっている。私は黒子くんの表情を確認しようとして、戦慄した。そこに座って私の傷に爪を立てているのは、火神くんだった。力がだんだん強くなる。痛い。声にならない悲鳴が喉の奥で弾けた。火神くんは、黒子くんの声で話し続けた。
 もう、あんなことはしないでください。お願いです。ねえ、何でこんな事言っているかわかりますか?この火曜日に、あなたが火神くんのものになってしまわないか心配なのです。あなたが、火神くんに汚されないかが、本当に気がかりです。ねえは火神くんの気持ち、知っていますよね?判ってますよね?どうしてそんな風に知らないふりができるんですか?
 遠くで雷鳴がする。いつのまにか、雷雨の気配がすぐそこまで迫っていた。太陽の影が遮られる。教室が影ていく。ごろごろ、と遠くで雷の音が聞こえた。
 は僕のものです。最初から最後まで、全部僕のものです。火神くんには一つもあげません。は僕が汚します。僕だけが、キスしたりセックスしていいんです。昨日本当は、出来ればもっとしたかったんですよ。一回じゃ全然足りないです。次はもっと、しましょうね。
 火神くんはそう言いながら口の端をつり上げた。火神くんは私を抱きかかえ、私の耳に口を近づけた。触れるか触れないか、といったところで火神くんの息が私の耳の産毛を揺らした。火神くんの低い笑い声が身体に響く。

 「それでも、俺とやりたい?」

 私はその声で、飛び起きた。大きな自分の息づかいだけが、私の部屋に響いていた。


 これはまた、酷い夢を見てしまった。私はあー、とかうー、とか言葉にならないうめき声を上げた後、ベッドから降りた。洗面所に直行し、変な油汗をかいた顔を洗い流した。ぴりりと右手の甲が痛む。おそるおそるそれを確認すると、右手のセイバーの傷つけたところから血が出ていた。昨日、寝る前までは薄皮が張っていたのに、おそらく寝ている間に破けたのだ。ベッドを確認すると、掛け布団に少し血がこびりついていた。こすれば取れそうだが、気分的に最悪だ。どうしよう…。直前に見た夢の内容が内容なだけに、そのあまりの気持ち悪さに私は一人頭を抱えた。最近、自分はどうしてしまったのだろう。気持ちの悪い夢ばかり見る。しかも、その夢に必ず火神くんや黒子くんが出て来るのだ。私があの二人に何をしたというのだろう。夢の中で黒子くんは何であんなことを…いつもの夢と違い、鮮明なまでに脳内に残っている夢の情景は、私をただただひたすらに最悪な気分にさせた。夢で、本当によかった。セックスなんて不穏な単語が出て来る夢なんか初めて見た。そう思えば、なんだか自分が卑しい人間のように見えて、一人静かに恥じ入った。これが思春期なのかな…。あまり気にしないでおこう。
 今日は大人しく過ごそうと、まずセイバーの所に朝ご飯を持って行き、それからは家でのんびりとごろごろして過ごした。弟はぴこぴこと今日も飽きずにゲームをしていたし、母親は友達とランチだと言って昼から出かけてしまった。結局、私は弟の分も一緒に昼ご飯を作った。その後は宿題したり、セイバーと遊んだり、DVDを借りて映画を見たりして、休日を楽しんだ。寝る直前になって乱れに乱れたベッドを整えている時に、ふと気付いた。

 私、本とシュシュ、何処にやったっけ?

 やばい、シュシュはともかく、人に借りたものなのに。私はベッドのあちこちを探しまわった。昨日は確か、本を読みながらそのまま眠ってしまったはずだ。私はベッドの掛け布団を床に落とし、本を探した。ない。シーツも剥いだ。ない。ベッドの下にも、なかった。ベッドを思い切り引き動かし、ベッドと壁の隙間を見た。でも、本とシュシュは見つからなかった。何で?私は部屋を出て、母親に今日私の部屋に入ったかと尋ねた。母親は入っていないと答えた。なら、弟だ。私はテレビをぼーっと見ていた彼に同じ質問をぶつけた。が、成果はなかった。本とシュシュを見なかった??私は二人に尋ねたが、二人は首を振るだけだった。
 どうしよう、黒子くんに何て言おう。頭から冷や水をかぶったような気持ちになった。机の上にも、ない。本棚も、一冊一冊丁寧に見たが、なかった。パソコンの裏、椅子の下、テーブルの周り。どこか床に落ちてやしないかと、目を皿のようにして探した。カーペットをめくりもしたが、本は見つからない。シュシュも同様に、見つからなかった。やばい。本当にやばい。借りたものをなくすなんて、最悪じゃないか。私はリビング、キッチン、はたまた弟の部屋まで、家の隅々を見てまわった。
 それから一時間以上同じ場所を探しまわったが、結局その二つを見つけることはできなかった。明かりを消した部屋で、掛け布団にくるまりながら私は考えた。頭上の丸い電灯が、薄緑色にぼんやりと光っている。どうしよう。どうやって謝ればいいんだろう。次会ったら、とりあえず謝って、そして本屋で新しい本を買って弁償しよう。私は頭で黒子くんの許しを得るまでの方程式を、ああでもない、こうでもないと色々組み立てては分解した。そして、何時の間にか眠ってしまった。




















十月七日

 教室に、僕は居ました。放課後です。強い赤い光線のような夕日が差し込んできて、教室は不気味な影に浸食されつつありました。よく目をこらさないと、少し離れた所に立つ人間の人相を確認出来ないぐらいに、教室は暗くなっていました。教室の電気はつきません。僕はその中赤い闇の中で、席に座っていました。誰かを、待っている気がしました。そして、その誰かはもうすぐ此処に来る、という確かな予感がありました。その人物がいいものか悪いものなのか、よく判りません。僕はただ、その人を待っていました。
 その人はまもなく教室に入ってきました。彼は大きいので、教室に入る時もかすかに頭を下げなければいけませんでした。僕は彼を見ましたが、彼は僕を無視しました。彼はいつものように僕の前の席につくと、携帯をいじり始めました。火神くん。僕は呼びかけましたが、彼は無視しました。火神くん。もう一度名前を呼ぶと、彼はだるそうにこちらを向きました。
 何だよ。
 …いえ、何でもありません。
 あ、そうだ黒子。火曜日のストバス、俺いけねーわ。
 そうなんですか?そういえば、僕は一年生皆とその日にバスケの小さな大会に出る約束をしていた事を思い出しました。
 何か用事が出来たんですか?
 俺、その日と出かけることになった。
 え?そうなんですか?僕の喉の中を何か冷たいものが降りていきました。
 悪ぃな。
 火神くんはそう言うと、携帯に目線を戻しました。暗い教室の中で、そのディスプレイは爛々と輝いて見えました。はやくお前に会いたい。彼のメール作成画面には、そんな文面が書いてありました。差出人は確認せずともわかります。僕が咄嗟に彼の携帯に手を伸ばしたのは、僕自身予期していない行動でした。おい、と火神くんが言うがはやいか、僕はその携帯を彼の手からむしりとり、教室のすみへと投げ捨てました。からんからん、と携帯はかたい音を立て回転しながら遠くにすっとんでいきました。火神くんの手が僕の襟をひっつかみ、持ち上げました。息が詰まって、顔に熱が集まりました。

 お前、俺の何が気に入らないんだよ!!

 彼は、唾を飛ばしながらそう言いました。

 わかりません。
 でも僕は、はっきりと、かがみくんにしっとしています。
 そう言うと、火神くんと教室は、音も無く砂塵となって消えました。


 目を閉じ、もう一度開けると、僕はもう見知らぬ部屋にいました。


 電気のついていない、小さな部屋です。壁にはカレンダーがかけられてあり、勉強机の上には電源のついたノートパソコンが置いてありました。レースで机をきれいにデコレーションしている所を見るからに、明らかに女の子の部屋です。その時僕は初めて、異性の部屋に足を踏み入れていることを知りました。いけない事をしているような気持ちになって、胸が一人でに高鳴りました。足の指の間に入り込む毛長のカーペッドの感触がリアルです。歩けば、僕の身体の衣擦れの音が、辺りにひびきました。僕は注意深く周囲を観察しました。シンプルな部屋です。カーペットの上に小さなテーブルが置いてあって、勉強机に本棚、ベッドしかありませんでした。そばにある本棚に納められている本はほとんどが漫画でした。ベッドは一番奥に置かれており、電気がついていないのでその上に寝ているのが誰だか確認することができません。小さな寝息が聞こえるので、そのベッドの持ち主は確かに眠っているのでしょう。僕は、その人を起こさないように、足音をこらしてそっと歩み寄りました。しゅるしゅる、という寝巻きから漏れる衣擦れがうるさくて、出来るだけゆっくり僕は歩きました。ベッドの側まで来ると、僕はあっと声をあげそうになりました。ベッドの上で眠っているのは、ではありませんか。がうつ伏せになって、全く無防備な状態で眠っていました。僕の夢は、とうとう彼女の部屋を創造するまでに至ったようです。僕は、息を出来るだけ殺して、彼女を見つめました。彼女は開いた本を頭の下敷きにして、少々寝辛そうにして眠っていました。本を読んでいる間に眠ってしまったのでしょうか。僕は、彼女の頭の下から本を出し、枕まで導いてあげることにしました。初めて見た寝顔を見るだけで、心臓がどきんどきんと暴れ出して、身体が勝手に熱くなりました。僕は、震える手で彼女の頬を抑えました。そして、本をつかみ、ゆっくりと彼女の頭から引き出します。
 ゆっくり…。ゆっくり…。
 僕はたっぷりと時間をかけて、彼女の頭の下から本を抜き出しました。本は僕が貸したものでした。読んでくれたんですね…。正直期待していなかっただけに、僕は嬉しくなりました。彼女の頬には、本の跡がついていて、かわいらしくて顔をなでたくなりましたが、僕は必死の思いで我慢しました。さらに、僕は彼女の後頭部で何かくしゃくしゃしたものが下敷きになっているのを見つけました。そっと取り出してみると、それは先日見たシュシュでした。こんな大きな石がついたものを頭の下に敷いていては、寝辛いし痛いでしょう。たんこぶでも出来たら大変です。僕はそれを本と一緒に片手に持つと、の寝顔を覗き込みました。鼻と鼻が触れそうなくらい、近くで。こんな近くで彼女の顔をまじまじと観察したのは初めてだったかもしれません。夢の中では彼女をさんざん好きにしてきた僕ですが、現実世界では当然、ありません。の眼球はまぶたの下で、何やらせわしなく動いていました。夢を見ているようです。僕と同じように。
 そうでした。此処は、僕の夢の中なのです。僕はの寝顔に釘付けになりました。そう、此処は僕の世界で、何でもしていいのです。いつかの晩みたいに。あれを思い出すと、どくん、と大きく心臓が跳ねました。何でもしていい。この場でめちゃくちゃにしたっていい。火神くんは此処にいない。今なら、誰にも邪魔されない。僕はのベッドの側で棒立ちになりました。したい。したい。したい。いつかの時みたいに、唇が震えました。あの時に見た、の裸がぱちぱちと爆ぜるように脳裏に次々と浮かんできました。ぬめぬめとしたの中に僕のものが触れた時を思い出すと、それだけで僕は胸が打ち震えました。僕は、そっとの身体の上に馬乗りになりました。は身じろぎもしませんでした。そのまま両手を彼女の顔の横について見下ろした所で、僕は変な違和感を感じました。僕の夢は僕のためだけに存在するのですから、全てが僕の思い通りになっていなければなりません。しかし、は一向に目を覚ましません。という事は、僕にはの寝込みを襲いたい願望があったということでしょうか。口に出すのも恥ずかしい願望です。僕はに覆いかぶさったまま、一人赤面しました。此処は夢ですから、この部屋で彼女に何をしても、現実の彼女に知られることはありません。ですが、に僕の本性が知れたとき、彼女はどう思うでしょうか。こんな夢を見て、今日もきっと夢精する僕を知ったら。きっと僕を気持ち悪いと罵り、二度と口をききたくないと思うでしょう。そうすれば、彼女は必ず、優しい火神くんのものになってしまうでしょう。僕の恋人にはもう二度と、例え何があっても、なってくれないでしょう。そのチャンスは永遠に失われます。それは、確定未来です。今の僕は、夢では大胆に振る舞えるくせに、現実世界では焦ってばかりいる…内弁慶もこれほどまでの人間はそういないでしょう。今のこの僕の行動は、火神くんという友達に勝手に嫉妬して、暴走した夢を見るみじめな僕の人間性をよく現しています。最悪で、変態で、みじめで、心の狭い最低な人間です。マスターベーションでも感じなかったほどの強い自己嫌悪が、の寝顔と混ざり合って僕の良心と自尊心を傷つけました。すると、これから彼女にめちゃくちゃにしてやろうという気持ちが、どんどんと小さくなっていきました。そして、さっきまで変な動きをしていた心臓が、だんだんと落ち着いていきました。

 さっきまで身体を支配していた真っ黒な衝動がすっかり萎えてしまうと、僕はに馬乗りになったまま、手持ち無沙汰になりました。はすうすうと、僕の気持ちも知らずに眠り続けたままです。

 に、キスがしたいと思いました。
 は眠ってていいから、何も知らなくていいから、僕の名前を呼んでくれなくていいから、その間に僕は彼女にキスをしたいと思いました。
 彼女は誰の夢を見ているのでしょうか。それはきっと僕のそれではありません。知っています。もう、十分です。きっと明後日、彼女は彼のものになる。
 だから、僕は片手で彼女の目をそっとおおって、そしてそっと彼女の唇を自分のものでふさぎました。


 じりじりじりじり。

 そこで、目覚まし時計が鳴りました。目が覚めた僕は、自分が泣いている事に気付きました。涙の粒は、耳元まで降りてきていました。身体を起こして、僕はしばらく夢の余韻にひたりました。あれは、何だったんだ。僕は、また…。拭いきれない自己嫌悪に、僕は涙しているのでしょうか。僕はベッドの上でしばらくうなだれました。重く痛む頭を抱えようとして、僕は手を動かしました。

 そして、2秒ほど、自分の手を見つめていたように思います。

 僕は自分の手にしっかりと見覚えのあるものが握られているのを知り、絶句しました。
 うわっ。
 咄嗟に僕はそれらをベッドの外に放り出しました。に貸したはずの本とシュシュが、カーペットのちょうど茶色いシミのついたところに落ちました。それ以上、動けませんでした。何も考えられませんでした。僕はいつまでも、シミの上の本とシュシュを見つめていました。心臓が耳元でうるさく鳴り響いて、それはいつまでも鳴り止みませんでした。

 今日も部活です。バスケ部に休みはほとんどありません。僕はセンスがないので、火神くんのようにあれこれすぐに出来るようにはなりません。今日は模擬試合をしました。火神くんと同じチームでしたが、同時にコートに立つことはありませんでした。試合は久しぶりに僕たちのチームの勝利に終わり、試合中のコミュニケーションを問題ありませんでした。コートの中でも外でも、以前のように彼と話せる僕がいました。正直、とてもほっとしました。とっぷり日が暮れるまで練習したあと、同学年で集まって軽くミーティングして、火神くんと僕と降旗くんで部室で着替えに行きました。

 おい降旗、小金井先輩が火曜日いいってよ。
 お、まじで?おう。あーよかった、これでストバス出れるな。
 そんな会話が僕の耳に飛び込んできました。指先から冷たく痺れるような感覚がしました。僕はロッカーの扉を閉めて、火曜日ですか?と二人に尋ねました。
 そうだよ、ストバス。火曜日、祝日で学校休みじゃん?だから俺たちでストバス行こうって話したの忘れたか?
 あ、いえ、そうでしたね…。覚えています。

 いや、そんなまさか。嫌な予感がしました。夢の中で見た、真っ赤な夕日を浴びた、火神くんの横顔が僕の心に冷や水を浴びせました。

 火神がよーその日無理なんだって!でも、小金井先輩が代わりに出てくれるってさ。だから5人そろうし、問題ないよな。登録は明日その場でだろうし。でもまさかエースが抜けるとはなー。

 降旗くんが大きく、訳ありげにためいきをつきました。ひゅ、と僕の喉から変な音が出ました。

 あー…悪ぃな。
 火神くんは、そう言って荷物をまとめていました。僕は彼の背中を見ました。火曜日、何かあるんですか?気付けばそう口にしていました。火神くんは、ちょっと、その日は出かける用事がな。と言葉短く切りました。
 えっ?お前まさか、彼女出来たの?
 降旗くんの素っ頓狂な声が部室にわんわんと響きました。
 ちげぇーよ。ちょっと買い物行くんだよその日。
 えー、でも一人でじゃないだろ?降旗くんが火神くんに食い下がりました。

 さんと、ですよね。

 火神くんは、ゆっくりと振り返りました。その目は、しっかりと見開かれていました。驚愕、という言葉がぴったり当てはまります。えー、なんだそれー!とデートかよー!お前、話聞かせろよ!降旗くんの嬉々とした声を聞き流しながら、僕は彼に背を向けて先に帰りますね、と部室を出ました。部室を出てすぐのところで、カントクが僕を待っていました。僕の最近の様子を見かねて、心配してくれました。悩みがあるなら言って。彼女は真剣にそう僕に尋ねてくれましたが、僕は何でもありません、と首を振るしかできませんでした。僕は一人で帰り道を歩きました。外はとっくに暗くなっていて、黒いアスファルトの上で僕はうつむいていました。

 僕は、おかしくなってしまったのだ。

 喉が痙攣したようにふるえて、意味のない音が喉の奥から漏れてきました。僕はきっと、気でも狂ったのです。
 常日頃、理性的な生活を送り、本能むきだしの欲望や衝動は上手く隠し通してきたつもりでしたが、ちがったのでしょうか。そしてその事に、僕だけが気付いていないのでしょうか。昨日の夜、あの教室で火神くんに会ったのは、本当に夢だったのでしょうか。あの本とシュシュを、僕はどうして握りしめていたのでしょうか。今こうして、此処に立っている此処は、夢の中なのでしょうか、現実なのでしょうか。一体、どこが現実なのでしょうか。の身体をむさぼった夜を思うと、怖くなりました。もしあれが、現実に起こったことだったら。僕が本当に、あんなことを彼女にしてしまっていたら。あそこで、目覚まし時計が鳴らなかったら。僕が夢から目覚めなかったら、どうなっていたでしょう。こんな気持ちの悪い、意味の判らない感情に押し流される事もなくなるのでしょうか。どうして人は夢から目が覚めるように出来ているのでしょう。
 足下に穴が開いて、今まさにその深い穴に落ちようとしているのを待っているような、そんな心地がしました。冷たい音を立てて、僕の胸がバラバラと割れていきました。僕は地べたに転がる、ガラスの破片のようなそれを摘んでぎゅ、と強く掴みました。ぴりりと淡い痛覚がして、手のひらにちいさな傷ができました。血がぷくぷくと傷口から浮かび上がってきたので、僕はそれを舐めとりました。汗と汚れの混じったにがい味がしました。頭がひどく痛みました。