十月五日

 今日は本を頑張って読んでいたせいで、とてつもなく寝不足だ。今日もまた夢を見ていたような気がするが、内容なんてとっくに忘れてしまった。それより大事なのが、この本だ。ハリーポッター以来久しぶりに手にとった、黒子くんのその外国小説(原作はアメリカの有名なミステリー作家が書いたものだった)は、中々どうして予想以上に面白く、私は時間も忘れて読みふけってしまった。本に熱中して寝不足だなんて、寝坊の言い訳にしては少し上質なもののように思える。という訳で、一時間目の途中に私は登校した。おかげで、今日から一週間ほど出張だという父親の見送りも出来なかった点に関しては、はっきりと心が痛んだ。お父さんごめんなさい。あの本がおもしろいのがいけないんです。
 黒子くんの本は、謎が謎を呼び、その度少しずつ解けていくストーリーは私を魅了してしまった。さっきネットで軽く検索したところ、今度アメリカで映画化されたものが日本でも公開されるらしい。黒子くんに教えてあげよう。ああ、早く読み終えてしまいたい。学校なんて無ければいいのに。きっと最後のシーンで、何か弾けるみたいに、全部の謎があっという間に解けてしまうのだろう。期待で胸がわくわくした。遅刻の理由を告げると先生にはほとほと呆れられたが、気にしない。本を読んで寝坊は、とにかく上質な言い訳なのだから。…え、ちがう?
 一時間目が終わると、私は黒子くんに話しかけた。小説、まだ全部読んでないけど、あれすごく良かった!一気に半分読んじゃったよ、と話しかけると、黒子くんは驚いたような顔をしてみせた。どうしたの?と尋ねると、黒子くんは、いえ、本当にさんが読んでくれるとは思わなかったので、と答えた。昨日、本を見た時の私の様子を見てそう思ったにちがいない。良心がまたちくちくと痛み出した。許してほしい。あの時はごめん、と私が謝ると、黒子くんはいえ気に入ったなら良かったです、と微笑んでくれた。なんていい子なんだ!何処まで読んだか彼は尋ねてきたので、マイケルとジョージが誰かに撃たれて殺された所だ、と答えると、それじゃあ早く読んだ方がいいです、そこからが面白いんですよ、と黒子くんは少し興奮した感じで話した。目がきらきらしていて、きれいだった。私はそれまで彼の瞳の色を知らなかった事に気付く。さらに、こうして黒子くんが、何かを楽しげに話すところも初めて目にした。火神くんが何か珍しいものでも見るような目で黒子くんを見た。彼にとっても、これはきっと滅多に見られないのだろう。

 今日一日中、黒子くんは、火神くんと私の会話に頻繁に参加してくるようになった。そのどれもが内容はあってないようなものばかりだったけど。黒子くんって、こんなに喋る子だったっけ。無表情だと思っていたその顔にも、表情があるらしく、注意深く観察するとそれを理解する事ができた。一気に仲良くなった気分だ。それくらい今日は黒子くんと話した。今まで半年分を合わせても今日ほど話さなかったのではないだろうか。さらに、なんと、黒子くんは掃除も手伝ってくれた。今日は誰も休んでいないのに。私としてはすごく助かってありがたかったんだけど、火神くんは何故か変な顔をして黒子くんを見ていた。どうしたんだろう。多分掃除より部活に行きたかったんじゃないかな。黒子くんが手伝うんだったら、自分が手伝わないわけにはいかないし。結局、火神くんも手伝ってくれた。ありがたい。

 その放課後のことだった。信じられないことが起こった。と書くと、火神くんに怒られてしまいそうだけれど、結論から言えば彼になんと遊びに誘われた。と言っても、薮から棒に、今度の祝日である火曜の予定を確かめられて、空いていると答えると、彼は、
 その、かよーびに、そのぉー…買い物に付き合ってく…くんねー?
 と奥歯に何かネギでも挟まったかのような言い方で、しかもそっぽを向きながらそう言うので、私はこらえきれずに笑い出してしまった。笑うなよ、と彼は顔を少し赤くして怒ったが、これはきっと火神くんのせいであって、私のせいではない。とにかく、かくして、火神くんと祝日に一緒に買い物に行く事になった。その日を楽しみにしてしまう自分を再確認して、一体何なんだよーう、もーう、と一人帰り道で浮き足立って盛り上がってしまった。今家にろくな服がないから、次の休みに買いにいかなきゃ。

 家に帰りごろごろしていると、あとから帰って来た弟が捨て猫を家に入れようとしている場面と遭遇した。動物嫌いの母親が怒って、というよりぶちキレて玄関口で弟と口論していた。私の制靴はその猫の爪にがりがりと引っ掻かれ遊び道具にされていたようで、ぼろぼろになっていた。やめてえええええ!私は慌てて猫の下から靴を取り出して確認したが、私のそれまでぴかぴかだった制靴は最早息をしていなかった。つやつやしていた表面は、今や曇りガラスみたいになっていたのだ。大事に履いてたのに…私は足下でごろごろにゃーんと他の靴で遊び続ける猫をきっと睨みつけた。母親は呆れ果てて、それ高かったしもったいないから、その靴をあと半年は履いてねと私に言い渡した。知ってるよ、これ何気に本革だもんね。しかし非常にショックである。こればっかりは私は何も悪くない…!誠に遺憾の意だわ。日本語にもっと激しい怒りをしめす言葉がないのが残念である。

 結局猫は弟と、巻き込まれた私が二人で交代でマンションの裏でひっそりと世話することになった。マンションのルールには従わないといけないので、仕方がない。マンションの裏で飼うのも、はっきり言ってアウトだ。弟はその猫に、セイバー、というアニメ?のキャラクターの名をつけていた。こいつほんと頭大丈夫か。と思ったものの、私もちゃっかり夕食後はセイバーと本に全てを捧げた。風呂で軽く洗ってあげた(これだけは許された)セイバーは中々の美人だった。白い毛に青い瞳、ピンク色の鼻。よく見ずとも、かなりのかわいこちゃんである。ご飯を上げるとセイバーはうまいうまいと言って食べてくれた。勿論比喩です。とりあえずセイバーの愛くるしさに免じて、ボロボロにされた制靴のことは許してやろうと思う。でも母親にしてみれば、娘の、それも買って半年の靴をボロボロにしたセイバーの事を、簡単には許せないとは思うけれど。
 今日も夜更かしして、本は全て読み終わってしまった。全てがつまった最後の20ページを、私は何度も読み返した。すばらしいエンディングだった。すっきりとした心地よい読了感は、私の脳の神経のすみずみまで染み渡った。これは黒子くんにお礼を言わなければ。もうすぐ公開という映画も楽しみだ。明日から土曜と日曜を挟むから、月曜日に、学校で会った時に黒子くんに感想と、お礼を言おう。


















十月五日

 今日の夢は、いつも通りの感じで始まりました。いつも通り、というのはいつも通りの教室で、火神くんの後ろで火神くんとさんの会話を聞いている夢です。僕はその会話に参加する事が出来ません。さんは最近どうやら猫を飼い始めたようです。火神くんは猫は平気ですもんね。猫を見に行きたいと火神くんが話していて、胸が痛みました。犬だったら何て言ってたんでしょうか、なんてこんな事考える僕は相当意地悪ですね。自覚しています。
 火神くんは何でも持っています。背が高いし、快活だし、素直だし、運動神経も僕とは雲泥の差です。当然バスケでも彼はエースで花形ですし、普通の高校生じゃ出来ないダンクをする事が出来ます、とこんな事を言っても、さんはバスケをよく知らないと思いますが。ああ、昨日まで良い夢を見れていたのに、どうして今日になってこんな見たくもない場面を見なければならないのでしょう。いやになります。僕はぐしゃぐしゃと頭をかきむしり、早く目が覚めろ覚めろと念じました。しかし風景は変わりません。僕の目の前に、火神くんの大きくて広い背中と、嬉しそうな横顔があります。さんとずっとその猫や、家族の話をしています。彼女は本当に仲がいいんですね。ご家族とも火神くんとも。胸がむかむかします。頭が重たくなって、無性に苛々しました。
 僕ははたと思いつきました。そうだ、夢の中なのだから何したっていい。どうせ全て僕の脳が作り出した幻想だ。これは僕の世界なのだから何したっていい。そう思いつくと、授業中にも関わらずに僕は立ち上がりました。しかし、皆は気付きません。これはきっと、いま僕は夢の中で物理的に透明で、皆が僕に気付かないように願ったからです。いつもと違って、僕は完全に透明なので、このまま火神くんの頭を思い切り殴っても火神くんは僕と気付かないはずです。僕は火神くんの横っ面を、軽くはたきました。火神くんは完全に面食らった様子で、頬を抑えながらあれ?と辺りを見回してます。火神くんに僕は見えてない様子でした。さんがははは、と笑いました。ああ、こんな事して火神くんと部活の時にきちんと練習出来るでしょうか。まあ、今までも大丈夫でしたからきっとこれからも大丈夫でしょう。僕は次に、さんのところに歩みよりました。そしてそのまま、横からさんをぎゅ、と抱きしめました。さんは肩もどこもかしこもやわかくて、とてもいいにおいがしました。それを吸い込むと、どうしようもなくなりました。大きな真っ黒い衝動が身体の底から生まれでてきました。
 僕は、周囲の全てに消えるよう念じました。すると、周囲が煙のようにぼやけて消えて行きます。びっくりしたような火神くんの顔も、煙のような細かい粒子になってさらさらと流れて行きます。僕は皆を消し去ると同時に、姿を現しました。僕の腕の中で、さんが驚いた顔をしました。黒子くん、とさんは可愛い声で僕の名を呼びました。さんは何時の間にか立ち上がっていました。僕はぎゅうと抱きしめる力を強くしました。何処にも行かないで、。僕はそう呟いて、彼女の顎を掬い、そのまま唇を奪いました。歯でやわらかく噛んで、舌で舐め上げて、唇で吸いました。とてもとてもやわらかくて、僕は何度も口づけました。彼女の唇はとうめいな味がしました。いくらしても足りないって、このような感じなんでしょうか。すって、はいて、噛んで、舐めて。初めてのキスに没頭しました。もうずっとしていたくて、止まりませんでした。僕は彼女を壁に押しやり、キスをしたまま制服に手を入れました。そして、…目が覚めました。

 じりじりと、けたたましい音と共に僕は目を覚ますと、下半身に広がる不快な感覚にまず気がつきました。このぬるぬると濡れた感じは、まさか。僕は寝巻きと下着を一気に引き下ろしました。そして、そこに残る罪悪感と自己嫌悪感に、思わずそれから目をそらしました。夢精していました。ティッシュで丁寧にふきとって、ゴミ箱に捨てました。頭が痛くなって、僕はベッドの上でうずくまりました。今日、さんの目を見て話せる自信がありません。もとより、話す機会があるかどうかはわかりませんが。

 結局、僕の心に巣食った罪悪感のようなもののせいで、僕は一日さんの方を見れませんでした。幸い、彼女の方から話しかけて来ることはありませんでした。今日ばかりはその方がありがたいです。案の定、授業はおろか部活にも全く身が入りませんでした。シュートが特にダメでした。心理状態がそのまま出たようなシュートでした。あとで火神くんに軽く叱られました。元はと言えば…はい、全部僕のせいです。すみません。しかし、嫌だ嫌だと念じ続けても、目をつぶれば僕とあの続きをするさんの身体が見えてきます。もういやです。また夢精してしまいそうで、今日は眠りたくありません。あんなみっともない気持ちには、もうなりたくありません。あんなものがずっと目にちらついて、どうして眠れるっていうんでしょうか。しかし、ずっと起きているわけにもいかず…僕は、大分ベッドの中で夜更かしした後、結局眠ってしまいました。明日も午前中は部活です。どうしたって、行かなければなりません。