空は仄かに明るかった。明け方だろうか。朝と夜の境界線が頭上に広がっていた。
 は、砂浜の伸びている先を見た。あちらの空の方が明るい。では、あちらが東だろうか。しゃり、と足のつま先に砂を絡めた。素足だというのに、この静かに濡れている砂は心地よく足の裏を滑る。砂浜は、とても美しかった。岩や木など、視界を遮るものなど何も無かった。真っ白な浜辺だ。何処までも、連なっている。見渡すばかり、砂浜と海ばかり。何処へでも、は見渡す事が出来た。
 冷たく当たる風は優しく頬を撫でる。彼女はまるで肺を洗うかのように、何度も深く呼吸してその美しい空気を愛した。もう一度空を見上げる。何て美しい夜明け。深い藍色をした夜は、丁度の頭上にて朝と交わっていた。徐々に白く薄く、儚く霧のように散っていって、何時の間にか朝の一部になっていた。藍色の絨毯の上の、そこらじゅうに散らばって宝石のように大きく光る星々が、丁度その朝になる部分で隠れつつあった。
 ざぶざぶ、とあちらこちらでさざ波を立てている。此処は、まるで原始の地球のようだった―――まだ、誰も陸の上に居ない頃の地球を見ているかのようだった。誰かから聞いた話だけれど、いのちの元となったものは海の中で生まれた小さな泡らしい。は、何も無い海面を見渡す。そこには何も無かったが、この何も言わず静かに廻っている海の下には、もしかしたらの知らないいのちがひっそりと生まれては消えて行ってるのかもしれなかった。
 誰も居ない。誰も。は改めて周りを見渡す。そこには、砂しか存在していなかった。そして、あらゆる夢をも超えた銀河の光が優しく頭上から降り注ぐばかりだった。

「来ちまったんだな」

 はその声がした方を向いた。その男の人は目元だけゆがませて笑っていた。

「そうよ、ようやく辿りつけたの」

 此処に来たと判った時から、その人に会える気がしたのだ。はその男の人に歩みよる。男はをまっすぐに見た。はるか昔のものを慈しむような、そういう風に愛しいものを見る目だった。そして、その男の抱える、懐かしさとも悲しさとも言いようのない感情で、その眼は少しだけ翳っていた。彼は続ける。

「長い時間が経ったんだなあ」
「そうよ。私が此処に来るまで、とても長かったのよ」
「とてつもなく長いはずなのに、懐かしい気がしねえんだな」

 笑った彼の顔は、の中で消え失せかけていた記憶のほんの断片を、彼女の胸元まで運んできてくれたのだった。数えきれないほどの花が次々と花弁を開いていくように、記憶が蘇っていく。の胸に無限大の思い出や、感情や、言葉が駆け巡って、大嵐の様に吹き荒ぶ。
 は、やっとの思いで手を、彼の頬に寄せた。彼女の手には深く年の皺が刻まれ、血管が浮き出ている。そして、すっかり痩せ細って骨だけになって、震えていた。肌は固く割れて、爪は擦り減っていたが、それでも彼女は愛しく男の頬を撫でた。

「ようやく、会えたね」

 その手におのれの手をそっと重ねるようにして、彼は目を瞑った。茶色くしなびた手が、がっしりとした若い手にしっかりと包まれている。その瞬間一つ一つが、には愛しくてたまらない。目尻から涙が溢れてきた。言葉を紡ぐのにも、必死だ。

「ようやく・・・・」
「もう、そんな時が来たんだな」

 何時の間にか、足元に海水がじゃぶじゃぶと音を立てて砕けていた。何時の間にか、海は二人を招きいれようとしていたらしい。はその海の心地よい冷たさを、目を瞑って感じた。足元できっと、目に見えないいのちが生まれては砕けている。そうやって生まれた小さな気泡は、また次のいのちへと作りかえられていく――きっと、彼女たちもそれと一緒なのだろう。

「此処は、何処なの?」
「あらゆる苦しみも、悲しみも超えた世界だよ。ひとは全てを終えた後、ようやくその平穏を取り戻すんだ。誰もが与えられうる全ての安らぎと平穏を手に、還っていくんだ」

 はもう一度空を見た。そして、男の頬に添えていない方の手を空に伸ばした。その手もまた、茶色く萎びて、しわがれていた。それでもは目を見開いて星を一つでも掴もうとした。
 もしかしたら、あの浮かんでいる銀河の中の、きらきらと瞬いている星の一つ一つが、その苦しみや悲しみなのかもしれない。それならば、何て美しいのだろう。どうして、あんなにも瞬いているのだろう。どうして、こうやってもう手が届かなくなってしまった事を、惜しく感じるのだろう。

「何処に還るの?」
「生まれる前に還るのさ」
「生まれる前に?」
「そう」

 ふふ、と男は少しだけ笑った。
 海はひたひたと腰の辺りまで迫っていた。は男―――エースの頬に、両手を当てた。
 かつて彼を嫌っていた海も、もはや彼を拒むような事はしない。長い時間を掛けて、海は彼を許した。今、母なる海は彼等を受け入れて、一体となろうとしている。そうして運んでゆくのだろう。この大きく広い、想い出の海の果てまで。彼等なら、きっと見つけられるはずだ。もし、道が判らなくなってしまったら、星の助けを借りよう。

。俺達は、これから何処までも、行けるんだ」
「何処までも?」
「そうだ。お前を連れて行ってやりたかった海があるんだ。見せてやりたかった景色があるんだ。話して聞かせてやりたかった楽しい話だって、たくさんあるんだ」
「私も、私もよ。エース!」

ぽろぽろ、彼女の目から涙が一筋二筋と零れ落ちて、そのまま口元の皺へと吸い込まれていった。

「これからその一つ一つを、全部、お前に見せてやりたい」
「エースと、ずっと一緒に・・・?」
「そうだ。ずっと、一緒だ」

 彼等は海に沈む。深い青色と泡で一杯のその中は、其処もまた銀河だった。二人は手を繋いで、笑った。すいと足で蹴って、二人はそのまま海の中へと消えていく。どんな痛みも、苦しみも、悲しみも、二度と彼等の道を阻まないだろう。これから記憶の海へと果ての無い旅に出ていく彼等を、引き裂くものはもう何も無いのだから。
 そうやって、二人はきっとこれから、後悔という名の追憶の一つ一つを辿って、全てを幸福に変えていくのだろう。彼等が今まで受けてきた如何なる試練や痛みの記憶だって、今の彼等ならきらきらと銀河に瞬く星にして、夢にしてしまえるのだから。
 の目尻から、涙が真珠になって光って零れ、顔の横で舞った。その横顔は、二人がお互いに別れを告げたあの日、あの港で、エースが見たものと全く一緒だった。エースは驚いた顔をして、彼女の手を見た。すらりと白いワンピースから伸びる腕、エースの手の中にある彼女の白いふっくらとした手、それのどれもがあの日最期に見たあの瞬間の彼女であった。エースは彼女の涙を指で掬い取った。そしてそのまま、これから二人で行く先にある幸せを想って、彼もまた少しだけ泣いたのだった。

















20100722 Sigur Ros/Glosoli